2010年11月02日

子供への嫉妬

嫌だなあ。

子供たちと関わるのが、今、すごく嫌。

生理前なのもあるかもしれない。

でもそれだけじゃなくて。

今、「子供と関わるのが嫌な自分」を認めるときに来てるんだと思う。

だからといってもちろん放り出すわけでなく。

子供との関わりを保ったまま、「子供と関わるのが嫌な気持ち」を、消化していく時期なんだと思う。

もともと、子供の頃から子供が嫌いだった私。

重ねてる部分ももちろん、ある。

それだけじゃなくて、嫉妬。

「平等に扱え」欲求が強い。

これは、直接子供に向かっている感情じゃなくて、子供に関わっている親や学校、社会全体に対する怒り。

それがねじ曲がって向かっている。

なぜ、私に許されない行為、権利、私なら罰せられるようなことを、あの子供は堂々と許されるんだ?

なぜ、誰も罰しない?

おかしいじゃないか。

なんで罰を与えないんだ!

なんで許されるんだ!

憎い。

許せない。

許さない。

これはたぶん、兄に対する怒りか。

私より先に生まれ、まだ小さかった兄は、私が必要とする母の助けをことごとく奪った。

母の視線も、母との会話も、母の膝も、母と遊ぶ機会も、おもちゃも、期待も、母に反抗することさえも。

私は兄がこんなにも嫌いだった。

私に許されない権利を全て手にしていた兄。

嫉妬をずっと持っていた。

ちくしょう。

お前ばっかり。

先に生まれたからって、男だからって、何がそんなに偉いんだ!

私だってできる!

お前が出来ることなら私だって出来るんだ!

お前だけが偉いんじゃない!

なんで私だけダメなんだ!

なんでお前はいいんだ!

おかしいじゃないか!

許せない!

なんでもかんでも、私の前で見せびらかしやがって!!!

そんなに私が羨ましがるのが面白いのか!

悪趣味!変態!性悪!

お前なんか嫌いだ!

大っ嫌いだ!

どっかいってしまえ!

お前さえいなければ・・・!

いなかったらよかったのに!





私は同じようなことを兄に直接言われたことがある。

兄は兄で私に対してコンプレックスを持っていたのは薄々知っていた。

でも、言葉にできただけ、兄の方が良かったんだろうか。

親に対しても、反抗心を表せただけ、兄の方が良かったんだろうか。

私はどっちも今頃やっとだ。

やっぱり私は兄が羨ましい。



私の子供たちのことも、羨ましい。

羨ましがっている私がいつもいてる。

私は多分、色々なことを後悔もしている。

後悔したくないと思って生きてきたから、後悔していないことにしていただけだ。

私は過去に、未練たらたらだ。

たぶんこれも私らしいことなんだ。

そんな私でいいじゃないか。

羨ましいことは羨ましいといいながら、未練があるなら時々振り向きながら、それから前を見たっていいじゃないか。

posted by 蝉ころん at 18:43| Comment(0) | ころんちゃん覚え書き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月01日

浸食

部屋がとっても散らかっている。

私のものじゃなく、子供たちのものが散乱している。

だんだん、私のスペースがなくなってきた。

ちょっと前から気付いていたけど、これは実家での状態の再現だ。

気に障るたび、掘り起こして書いて、怒りとか悲しみとかを出してきたけど、まだ残っていたらしくて、昨晩は、ちょっと行動に現れた。

私のスペースに置かれた子供たちのものを、乱雑にバサッ、ドサッ、ガシャッと音を立ててどかす。

やりながら、ああ、これは、実家で本当にしたかったことだな、と思った。

そのあと、また子供たちが寝付いた布団の中で、続きに思いを巡らせた。

中学生頃から私はずっと実家では片付け役だった。

私のスペースに物が置かれていても、私はそれを丁寧に、適切な場所に片付けた。

何度私の場所を占領されても、粘り強く片付けた。文句も言わずに片付けた。

言っても誰の心にも響かず、何かの騒動を引き起こす不快のタネになるだけなのを知っていたから。

その頃には既に体も大きく声も大きく、既に私では太刀打ちできない力を持っていた兄に対しても、私はどこかで恐怖心を感じていた。

兄は既に思春期に突入し、反抗心とともに怒りを親にぶつけるようになっていて、私に向けられたことのないその怒りに対して、恐怖を感じていた。

私は怖かった。あの家庭に存在するのが怖かった。

なるべく主張せず、目立たず、それでいて、受け入れられたい気持ちもあり、ただひたすら私の存在場所を、自分で空けた。

私の場所をくれない家族に怒りを感じつつ、どうかここに入れてくれ、と思っていた。



夜、夢を見た。

実家で、あの、むかし暮らしていた、物が散乱したあの部屋で、私は両親と兄に、散らかった物をぶつけまくっていた。

直接顔に向かって、怒りを叫びながら、私の場所を埋め尽くす物を次から次から拾っては投げていた。

お前が片付けろよ!

お前の物じゃないか!

捨てたら怒るくせに、私の場所に置くな!

そんなに私にいてほしくないのか!

それなら殺せば良かったじゃないか!

私がいらないんだったら、産まなきゃ良かったじゃないか!

この家に私の居場所なんか、どこにもないじゃないか!

私なんかどこにもいないじゃないか!



相手の顔も見ず、声も聞かず、必死で叫び続けていた。

私はまだ怖がっていた。

夢の中でさえ、私はまだ怖がっていた。

あそこで自己主張するということは、それだけの覚悟がいること。

仕方ない。私はまだ彼らのターゲッティングから外れてはいないんだろうから。

怖いものは怖くていい。

私は、父が、力に訴える可能性のある人だと知ってしまっているから。

怖いものは怖いんだ。

夢の中ででも怒りを表明できたのは、やっぱりすごいことだ。

よくやった、私。

posted by 蝉ころん at 20:42| Comment(0) | ころんちゃん覚え書き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月29日

私の地盤

夜、子供たちが寝付いたばかりの布団の中で、じわじわと怒りが出てきた。

前回辞めた会社での人間関係で抑えていた怒り。

全く責任を持たない上層部。

上層部同士で互いに相手をかばい合いつつ、不都合なことは全て下層へ、下層へ、責任を押し付けて、手柄だけを分け合う。

自分たちの評価を外部にもらうためにあることないこと、口ばっかり達者な奴ら。

部下は部下で、全員がなにがしかの気持ち悪さを感じながら、自分を叱咤激励して、自分の至らぬところを向上すべく、ひたすらその日の業務をこなすしかできることがない。

ハラッサーの上層部と被害者集団の下層部で回っているように見せかけているだけのような会社だった。

そうだな、私はこれを後回しにした。

あそこで感じた怒りも妬みも悔しさも辛さも屈辱も、まずは横に置いておいて、過去の私の掘り起こしに専念する覚悟をしたんだった。

昨晩感じた怒りは、破壊し続けたいような衝動は全くなくて、怒りの感情を言葉で表現してみたらあっけなく落ち着いて拍子抜けしたくらいのものだった。

過去から繋がって出てきた怒りではなくて、ただそのときに感じていた分の正当な怒りだって、そんなふうに感じた。



だいぶ視線が現在に戻ってきた。

過去の思いが出てきたら、またそのときに対応できるだろう。

そんな自分に対する信頼がある。

元夫の被害者だった頃、かろうじて私に残っていた私自身に対する信頼は、人間の体の機能に対する信頼でしかなかったけど、今は、自分自身に対する信頼としてここにある。

まだ、弱い、脆い信頼だから、早急に現実にこぎ出すことはできないけど、この信頼を取り戻せたことが、単純に嬉しい。



それから、私自身を大好きだと思う気持ち。

あんなに不自然さを感じていた、「大好き」「愛情」なんていう言葉も、それなりに、今の私なりにしっくりくるところまできた。

愛情を母親に頼らなくても、私自身で私自身に注ぐことができるようになってきた。

のぞむにも、ひかるにも、「大好き」を向けることができるようになってきた。

無理しないで分けてあげられる量はまだまだ少ないけれど、確かに、ある。

今は、この、できたての柔らかい地盤を、しっかりした頼りがいのあるものに育てて行きたい。

ここまできた道のりのように、急がないで、ゆっくり。

今は少し、このほやほやのほこほこの土の感触を味わってから。

まだまだ、ゆっくり、進む。

posted by 蝉ころん at 09:19| Comment(0) | 今の私 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月27日

受けるのか、受けないのか

ひかるからのコントロールを、受けるのがいいのかどうなのか、以前は迷いがあった。

それが私がした虐待の作用で、ひかるなりの表現だというなら、私は私のしたことの償いとして受けるべきじゃないのかと思った。

ひかるには私にぶつける権利があるんじゃないのかと。

でも今朝、ひかるの行為を、コントロールだ、と気付いたとき、同時に、私はこれを受けない、と決めた。

受けたらいけないことだと思った。

受けることで罪悪感を軽減するのは私の自己満足でしかないと思った。



あのとき、なぜそう思ったのか。

コントロールは、責任から完全に逃げようとする行為だ。

自分の希望に自分で責任を持たずに、他人が勝手にしたことにして責任を丸投げして逃げることだ。

そしてそのまま、自分の本当の欲求に気付かないまま、他人に背負わせて生きる道を進んでしまう。

だから、これを受けたらいけないんだって、わかったんだ。

受けることは、ひかるから責任を奪うことだ。




たとえそれが私のしでかした行為の影響だとしても、自分の責任は自分でしか背負えないことを、ひかるが学び直すために。

ひかるは、コントロールはコミュニケーションじゃないこと、希望を伝えるためには他の方法があることを知らないといけない。

まだまだ辛い道を進んで行かなければいけないことを思う。

私はただ見守るしか出来ないけど、ひかるは、その道をきっと乗り越えて行ける。

私はただ、目を背けずに見守る。

辛い道を進むひかるを、見守り続ける。

手も口も出さず、ただ、見守る。




私が受けるべきは、怒り。

虐待行為に対する怒りとして表現されたものなら、どれだけ長く続こうとも、受け続ける。

その怒りを表現して、私にぶつけることは、ひかるにとって大切な事だから。

私に向けるべき怒りを正当に表現することも、ひかるがひかるの感情に責任を持つことと繋がっていると思うから。

ひかるがひかるを受け入れるために大切な事だから。



ひかるはきっと、進んでいける。

posted by 蝉ころん at 20:42| Comment(0) | 今の私 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ひかるとの関係

私とひかるの関係は、今もまだ加害者と被害者という面が残っていると感じる。

私が加害者を残している限り、ひかるは被害者に戻るし、私の加害性が抜けたとしても、ひかるの私に対する恐怖心が簡単に抜けるはずもない。

ひかるの恐怖は、すでにもう隠されてしまっていて、歪んだ形でしか出てこない。



のぞむを見ていると、感情表現がとてもストレートで、とてもわかりやすい。

嫌なときは嫌なんだとわかるし、嬉しいときは嬉しさを体いっぱい表現しているし、怒っているときは言葉でも態度でも怒っていると伝えている。

自分自身に迷いを持っていないように思う。

のぞむとは、対等にケンカも出来る。謝り合って仲直りも出来る。

対等に人間同士として関わっている感覚がある。




ひかるは、とてもわかりにくい。

嫌なときに笑っていたりするし、嬉しいことでもすぐには反応しない。

それだけのことをしてきたんだなと思う。

そして、私のこと、相手のことを、伺っている雰囲気がある。

私が怒るか、笑うか、その瞬間を見ている。

私が笑っていれば笑う。怒っていれば引っ込む。



そして今日、ひかるは私に仕掛けてきた。

学校に行く、その時、突然床に転がる。

ドタドタと暴れて音を出す。

ああ、これは、私をコントロールしようとしていることなんだ、と思った。

「私が困ってるんだから、察して、助けにきて」という意味。

今までは、これに乗っていて、それが結局良くなかったんだな。

そのうち、泣き出す。

「こんなに泣いてるのに、助けにきてくれないなんて酷い」という意味。

関係が長いと、泣き方でわかる。

悲しくて泣いてるのか、辛くて泣いてるのか、責めて泣いてるのか。

ひかるは寝っ転がって、起きれなくて暴れていた、ということにしたい状態。

なんで来てくれないんだ、なんで助けてくれないんだ、このままじゃ学校に遅れるのに、なんで私を起こしてくれないんだ。お母さんのせいだ!



ひかるは、取引をしていたんだ。

学校に行くこと。

宿題をすること。

片付けをすること。

そんなことを、放棄することで、私と取引をしていた。

困るでしょう、私が学校に行かないと。

だから構って。私が学校に行けるように、問題を解決して。

嫌でしょう、片付けてくれないと。

だからなんとかして。私が片付けられないことをなんとかして。

お母さんのせいだよ?

うん。そう思ってたんだよね、私。

すっかり見抜かれてたんだよね。

自分が利用されてること、ひかるはずっとわかってて、嫌だったんだよね。

それで、立場を逆に利用して、私を動かすことを覚えてしまったね。




お母さんは、もう、察して動くことは、やめるね。

助けを求められたら、助けてあげることは出来る。

頼まれたら、手を貸すことは出来る。

でも、もう、勝手に答を探して、渡すことはやめるね。

ひかるの解決する力を、取り上げることは、もう、やめるね。

今までずっと、ごめんね。



これからが厳しい。

きっとひかるにとってはとっても辛いことになる。

ひかるはコントロールをコミュニケーションと誤解して学んでしまっているから。

私だって、ブレないでいられる自信なんかない。

特に生理前とか・・・冷静に問題を切り分けられる自信なんてない。



でも、踏み出すね。

加害者と被害者の関係から、抜け出すために。

私はひかるを手放す。

ひかるが私をコントロールしようとするのを受け入れない。

コミュニケーションで伝え合う関係に向かうために。



助けてって言っていいんだよ。

恐かったら恐いって言っていいんだよ。

嫌だったら嫌って言って、いいんだよ。

人を頼っていいんだよ。

そんな大切な事を、ずっと封じ込めさせてしまった。

ずっとずっと、恐いお母さんで、本当にごめん。



ひかる。大好きだよ。

posted by 蝉ころん at 11:45| Comment(0) | 今の私 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月26日

犠牲にした心

泣きじゃくる子供を怒鳴りつけていたとき。睨みつけていたとき。

私の目に映っていたのは誰なんだろう。

ぶつけた怒りは本来は母へのものだった。

大声で泣いて怒りを拒絶する子供は母なんだろうか。私なんだろうか。

それともやっぱり、見えていなかったのか。



ただ泣き声としか認識していなかったのか。

泣き叫んで拒絶される母親。そんな酷いことをした母親。

そんな、外から見た私の姿だけを見ていたんだったか。

あの瞬間、私の目の中には誰もいなかった。

怒りをぶつけた私も、恐怖に怯える子供も、いなかった。

ただ、私の世間体だけがあった。

あるべき姿から外れた私の外面だけがあった。



私は、子供をキチンと躾けられる母親という「あの子」を目指して子供に強制した挙げ句に、虐待をする母親という、あってはならない「ダメな子」に転落した。

どちらをとるかを天秤にかけて、虐待をしない母親という「あの子」を選択した。

あの時点では、私の思考パターンは変わっていなかった。

それでも、あの一歩があったから、私はここにいる。

あの日選択した「あの子」を目指して、「あの子」はいらないんだって気付くところまできた。



今は、ひかるが私に怒りを出せるようになることを願う。

心に力が付いて、被害者のひかるから抜け出すために、怒りのパワーをもって加害者の私を捨て去ることを願う。

怒りはきっとそのために使うもの。

私はその怒りを正しく受け止めたい。

あの頃の、ひかるの恐怖と悲しみと絶望を、きちんと受け止めたい。

どうか、ひかるが、怒りを無関係の人に向けずに、正しく私に向けることが出来ますように。

そして、怒りから解放されることが出来ますように。

posted by 蝉ころん at 11:07| Comment(0) | 今の私 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月25日

いろんな私

自分を振り返ってみて、自分の心の動きに気をつけて感じるようになって、人格といっていいのかわからないけど、何かが切り替わっているのがわかる。

状況によって出てくる、恐怖にさらされた時のための自分。ひたすら固まって状況が変わるのを耐え忍んで待つ、ただそれだけのための私が用意されている。

そして、緊迫した状況が過ぎ去ると、すぐに元の私に切り替わることができる。

意図してなっているわけでなく、頭の回路が自動的にそうしている。

切り替わった瞬間なんてものは全然気が付かない。

記憶も、感覚もつながっているのに、全く別の私になっている。

無意識に違和感なく切り替わっている。



その場しのぎに見える口約束も、その時の私は本気で約束している。

ただ、次の瞬間には、そんな約束をする気もなかった私がいる。

約束をしたときの気持ちも、恐怖を感じる用の私とともに、切り替えられて忘れている。

約束した記憶だけは存在するものの、約束は約束としての意味を持たずに、ただ恐怖の引き金として感じているから、約束自体を無意識に遠ざけてしまう。

そして、刻限が近づくと、約束とともに恐怖が沸き上がってくる。

恐怖に怯える私に切り替わると、目の前の恐怖しか見えなくなり、なにもできない。

そして約束を守らない私が出来上がる。



怒りに翻弄されているときの私も同じような感じ。

一瞬で頭が怒り一色に染まって、衝動のまま発散したくなる。

でも収まってしまえば、その時の怒りのレベルは理解できない。

言ったこと、したことは覚えていて、謝ったり、反省したりはするものの、その思いは怒っているときの私には引き継がれない。

反省はなかったことになってしまう。

怒りを出してはいけないって思いが、切り離した私。



辛くて悲しくて動けない私。

感覚がなくなったように真っ白な私。

見えているけど見えていない、聞こえているけど聞こえていない。そこにいるけどそこにいない。

誰も来ない、背の高い雑草の中でうずくまって1人で何も感じない時間をただ過ごすための私。

ただただ現実から逃げるための私。

そんな私もある。



学生の頃、多重人格に関する本を読んでいた時期がある。

当時はそんな症状があるんだな、大変だな、くらいにしか感じていなかったけど、最近、私はそれに近いんじゃないかと思った。

記憶が繋がってるか繋がってないかの違いで、人格が入れ替わってる機能(ってのもおかしいのかな)としては同じような脳の働きなのかもしれないと思った。

私の場合は、きっかけの出来事が生活に支障をきたすほどの経験ではなかったから、記憶まで分断する必要がなくて、感情だけが分離されたのかなって。

そんな自分をなにげなく感じていたから、多重人格に興味をもったのかな。



今は繋がれる自分がだいぶ増えた。

コントロールはまだ難しいけど。

どの私もちゃんと私だった。

私が、自分で切り離して、封じ込めていった私。

ごめんね。

こんなに長いことかかって。

長い間、放っておいて。



悪い私なんていない。

捨てていい私なんていない。

全部私。

大切な私。

感じちゃいけない思いなんてない。

posted by 蝉ころん at 18:59| Comment(0) | 今の私 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月24日

こんな私

電話がなる。

玄関のチャイムがなる。

知り合いとすれ違う。

私の苦手なこと。

本当の私でいるときに割り込んでくるからだ。

とっさに仮面をかぶってその場を乗り切る。

すごく疲れる。

携帯電話も嫌い。

子供と一緒にいる時間も苦手だった。

私を一番出したらいけないときだから。

そして私が一番出てきやすい相手だから。



1人でいるのが好き。

知り合いのいない場所が好き。

家じゃなく、外出先が好き。

没頭してても誰も来ない、誰かと関わるときでも仮面をかぶらなくていい場所が好き。

それはただ、自分自身でいたかっただけ。

したいことなんかなにもない、ただ自分でいたかっただけ。

没頭するのも、仮面を忘れていい時間が作れるから。

ただただ忘れていたかっただけ。

仮面を付けなきゃいけない場面も、本当の自分自身のことも。

突然違う人になれたらいいのに。

違う世界で全く違う人間に生まれ変われたらいいのに。

妄想癖は本気だったんだよ。

妄想の中の人間として生きたかった。

そっちの世界へ行きたかった。

本当の私を受け入れない世界も、世界に受け入れられない自分も、消してしまいたかった。

この世界と繋がっていたくなかったんだよ。



ぐうたらで片付けもしたくなくて洗濯もしたくなくて子供の世話も苦手で着替えもおっくうで料理もしたくなくて出不精で身だしなみも面倒くさい。

怒るし泣くし妬むし恨むし八つ当たりするし怒鳴るしキレるし行儀悪いし可愛くないし面白くないし虫歯もたくさんあるしおならもするし男みたいだし太ってきたし白髪もはえてきた。

他にもいろいろ。いっぱいいっぱい。

そんな私だけど。

そんな私が私だよ。

こんな私でも、やっぱり私は、私がいい。

私がいいと思う。

この私で生きて行きたいと思う。

posted by 蝉ころん at 15:51| Comment(0) | 今の私 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今の自分から

いい人になりたかった。

私を好きになって欲しかった。

好かれる人になりたかった。

本当の私は人に好かれる私じゃなかったから、好かれる人の仮面をかぶろうとした。

いっぺんに変身してしまいたかった。

仮面の私はニセモノの私。

でも、頑張って一所懸命仮面をかぶっている私は、本当の私。

いい人になりたい私は本当の私。



今その人でないとダメだと思ったから、その瞬間に好かれないとと思ったから、本当の私を見せるわけにはいかなかった。

最初に仮面をかぶってしまったら、かぶり続けるしかなかった。

本当の私は嫌われる私だから。



仮面の私からは成長できないんだね。

私は本当の私でないと成長できないんだね。

ハリボテの私はもう捨てるんだね。

私は私がなれる私にしかなれない。

いい人でなくても。

人に好かれる私でなくても。

それは本当の私。

取り替え続ける仮面でなくて、成長し続ける私。

凹んだり嫉妬したり怒ったり泣いたりしながら進んでいく私。

posted by 蝉ころん at 12:41| Comment(0) | 今の私 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月23日

自分の現実を認める

工場などの自己管理には、「人間はミスをする」前提で対策をするのが重要だって言う。

加害者性をもっている私も同じだって思った。

「私は人を傷つける衝動を持っている」

親のようにはなるものか、と思って生きてきたけど、そうはいかない現実を認められてないだけだった。

私は親のようになるように育ったんだ。

それを認めていくってこと。



私には、自分でも気付かないうちに封じ込めてしまった怒りがある。悔しさがある。妬みがある。

爆発的に表現されるのを待っている感情たちがある。

そして、取り込んでしまった表現方法がある。

コミュニケーションのつもりで身につけた間違ったやり方がたくさんある。

怒鳴る。

睨む。

見下す。

憶測で決めつける。

思い通りに動かそうとする。



無意識なほど出てくる。

リラックスするほど出てくる。

被害者だった頃、よく言われていた「加害者は、被害者相手に出す加害性を他人には出さないんだから、理解してやっている」という評価があるけど、それはやっぱりなんか違うんだ。

よそ行きの服を寝るまで着る事がないように、プライベートでは外用のキャラクターを脱ぐ。

プライベートでもよそ行きのキャラクターではいられない。

それをしようとして、爆発が大きくなる。

本当の自分が暴動する。

加害者は、もともと加害性を持っている。

加害性をもともと持っているのが私であること。

プライベートでも加害性を持たないキャラクターを演じ続けることはできないんだ。

私のプライベートの中に人を入れるということは、加害の的をつくるということ。



本当の私を消し去ることはできない。

本当の私自身が悪いわけでもない。

加害性のある衝動も、悪いわけではない。

間違った対象に向けていることに気付くこと。

コミュニケーション方法を学ぶこと。

衝動の表現方法を身につけること。

そうやって改善し続けいくこと。

これはきっと育つってこと。



きっと本当は産まれたときから始まっているコミュニケーションの学習が、うまくできてなかった。

足し算やかけ算を知らないまま、因数分解を丸暗記で解いているようなもの。

数字の意味も知らないまま、形だけ答を出したふりをしているようなもの。

足し算からやり直しても大丈夫。

頭脳は理解出来るところまで成長してる。

遅すぎるなんてない。

きっとちゃんと身につけられる。

私は育つって決めた。

posted by 蝉ころん at 09:49| Comment(0) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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