2011年11月07日

肯定の積み重ねのきっかけづくり

まだまだ考えつつ生活する毎日で。

考えていることの中心は自分育て&子育て。

そもそも自分育てを始めることになったのは、子供が幸せに育つにはどうしたらいいのかと考え始めたのがきっかけで、自分が幸せを感じないもとを辿ってみたら親が幸せに生きようとしていないことを生き方として学習したからということに辿り着き、んじゃあまず私が幸せのお手本になるのが大事なのかと思った。

そうしてみたらば、私は自分の幸せが何なのかが全くわからなくって、とにかく欲しいもの、したいことといえば話を聞いてほしいとか甘えたいとか休みたいとか独り占めしたいとか我がまましたいとかみんなと同じことがしたいとか同じものが欲しいとか・・・・

大人の幸せじゃないよね、てものばかり。

でもこれをクリアしていかないとその先は見えないと実感できてきたので、一つ一つ取り組んでいってるところ。

それで私のかなり大きな部分を占める欲求のひとつが「所属欲」で、受け入れられたい、認められたい、役に立ちたい、・・・そんなあたり。

これは元々育った環境で全く受け入れられたと感じられず常に余所者感を背負って生きてきたからだけど、じゃあ具体的にはどんなことが「受け入れられた」感を育むのか?と考える。

たぶん、もともと受け入れられている人達にとっては当たり前すぎて気付かない事柄の中に、「受け入れられた」体験がたくさんあるなあと思う。



で、私がそれを今から1人で経験することは無理だけど、子供たちにはまだそのチャンスはある。

子供たちにとって、私は個人でもあり、蝉家そのものでもある。私に受け入れられることがそのまま蝉家に受け入れられたことになる。なので機会があって自分にも余裕があったら、なるべくそういった経験ができるようにしたいと思ってる。



そのうちの1つがみんなですること。

なんでもないこと、簡単なこと、実は1人でした方が効率のいいことって、つい1人でしてしまいがちだけど、そこにうまく参加させてあげて、「みんなでして楽しかった」感覚をたくさん経験するといい気がする。

のぞむは思い立ったときに自分から入れて!と言えるけど、ひかるはまだ入りたいという気持ちがなかなか湧いてこない、感情の蓋の固い状態なので、入れる状況があったほうがよさそう。

で、ひかるとのぞむに提案して、ひとつみんなで取り組むことを考えた。

お片づけの時間。

ざっくりその時間になったら、5分だけ思いついたところを片付けたり、掃除する。終わったら、「おつかれさまー」っていってみんなでピノを1個ずつ。

それだけ。

やることとしては、遊んだ後に片付ける、とかで済むことだけど、それをみんなで同じ時間にする。自分のしたことのあと始末としてじゃなくて、家のみんなのこととしてする。

楽しくて終われる時間だけ。終わったらみんなで顔を合わせて1人1人がしたことを教えてもらってきれいになったねーってにこにこ笑う。決まった時間をやりきって満足すること、片付いたことで気持ちいいこと、みんなでワイワイ楽しいこと、ご褒美のアイスがおいしいこと、みんな笑顔で嬉しいこと。小さいことが少しずつ入ってる。こういうのってたぶん、掃除=楽しいにつながってく。どれくらいかけて定着していくのかはわからないけど、重ねれば重ねるだけ強くなってくはず。

楽しいのが目的だから、縛らない、こだわりすぎない、無理しない、欲張らない、頑張らない、長引かせない。ひかると私は頑張るスイッチが入りやすいから、入れないように気をつける。あと、ハラッサーの陥りがちな、「楽しいと感じさせてやろうと思ったのに」にならないように。楽しめない時があっても、それもよし。できないときも、それもよし。

今まだ1週間。ぐだぐだになってる私、自由気侭なのぞむ、こだわりのひかる、の3人でどこまで続くかわからないけど、今のところ、自分から声をかけてきたりして、楽しんでるみたい。

私も、1人でするより気分がいいみたい。思ったより私のためにもなってる。

子供たちは掃除が目的と思ってるけど、私は本当の目的、家族で一緒に嬉しいを感じること、を意識しておいて、ただゆるゆると続けられたらいいなと思ってる。
posted by 蝉ころん at 17:54| Comment(0) | 自分育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月22日

仕方ないってなにさ

子供の頃、よく「仕方ないでしょ」って言われた。

無理矢理納得させるための言葉。

気持ち悪い。違和感がすごくあった。

仕方ないって、自分が、納得したときに使う言葉だよ。どうしようもないことなんだな、って、腑に落ちたときに、「仕方ないな」って。結果として出てくる言葉だよ。周りから無理矢理思わせることってできないんだよ。

「もういいでしょ」とかもあった。

自分が満足できたら、「もういいや」って思うんだよ。他人が「もういいや」と思わせることはできないんだよ。

仕方ないと思えないうちに押し付けないで。
まだまだ納得いかないのにもういいことにしないで。
私の心を勝手に決めないで。

仕方なくないもん。ぜんぜんよくないもん。
誰も私の気持ちなんか聞いてくれないんだ!嫌なことされて「仕方ない」って思えなきゃ悪いのか!そんなの絶対受け入れない!みんな大っ嫌い!大大大大だーーーーーいっきらい!!



・・・・あー。

私はみんな嫌いだったっけ。

そういえばみんな嫌いだった。

大人も子供も家族も嫌いだった。

嫌いだったよ。

私を悪い子にするみんなが大嫌いだったんだよ。

怖かった。みんなで私を悪者に仕立て上げていた。よく自分を守ったね。すごいよ。本当によく頑張ったよ。許せないことは許さなくてもいいんだよ。間違ってないよ。偉かったよ。それでよかったんだよ。ちびころん、怖かったね。もう大丈夫だよ。
posted by 蝉ころん at 23:23| Comment(0) | 自分育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月21日

今日のお出かけ

昨日に引き続き今日もお出かけ。

昨日は子供ものの買い物、今日は子供主体のレジャー。どっちも、私メインじゃないのがよくないのか、今日も出ました。私のイライラちびころん。

やっぱり出がけはなかなか用意しない子供たち・・・。とっても楽しみにしていたのに、なんで用意できないのかを理解するのが私にはとても難しい。

大幅に予定時刻をオーバーして出発・・・不機嫌な私・・・これじゃお父さんと一緒じゃん・・・。

掘り起こす・・・掘り起こす・・・ちびころん・・・

用意をぐずぐずしてたら何が起こるかわからなかったね。
とにかく一人でなんでもちゃんと用意できなきゃいけなかったね。
突然お父さんがお母さんにぶち切れて予定なんかふっとんだよね。

色々と思いを巡らしていたら、声を出していました。自分でもびっくり。

「お母さんは出かけるから用意してって言っても用意してくれなかったからイヤだった。」
「わかってくれた?」
「じゃあ、いい。もう不機嫌はおしまい!」

で、不機嫌から復活・・・。
その後は問題なくみんなで楽しく過ごすことができました。

これ何?これ何?なんか今までのと違う感じ。

うまくできた、とはとても言えない対応かもしれないけど。

なんか、今の分の問題だけを話題にできて、それで後を引きずらなかった。掘り起こしているうちに、過去の分の感情が問題から切り離せたのかな?

なんかよくわかんないけど、こういうパターンもあるのか。意識してできるようになるといいことかもしんない。

とりあえず忘れないうちに。
posted by 蝉ころん at 19:24| Comment(0) | 自分育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月18日

チャイルド出現

子供と衝突しました。というか私の爆発の方が大きいんですが・・・。

どうも、私の頭の中で子供たちどちらかと予定している計画を、もう片方が独断で行動したことでおじゃんにされると無性に腹が立つんです。

いっぺんにスイッチが入ります。

以前から、友人関係なんかでも感じてはいたことなんですが、どうも私は1対1の関係にものすごくこだわっているようで、それが誰とのことでも、間に入ってくる3人目に怒りを感じるらしいです。

1対1の関係って言ったら、やっぱり母親との関係・・・。私、そんなにも兄や父に母を奪われていたってことなのか??と考えていったら、またもや涙がボロボロと出てきました。

やっぱりそういうことみたいです。

こういう状況で私が恨みを持っているのは兄と父。そして、それを許し続けた母。私が不満を持っていないものと決めつけて、私に重荷を押し付けた母。私は物心ついた時には既にそういう役回りでした。



そんなに悲しかったんだね。悲しいこともわかってもらえてなかったんだよね。わかってほしかった。でもお母さんは家を平穏に保つのに必死だったね。どうせあの父がいたら平穏になんかなるわけがないのに。お父さんのために言うことを聞かされた場面がたくさんあったね。

私の誕生日のはずなのに、お父さんがその気になったらいつでもぶち壊しだった。そして、ぶちこわしたお父さんに合わさせられた。お父さんなんか放っといて私を見て欲しかったよね。

お兄ちゃんはいつも新しいことを真っ先にさせてもらえた。褒められていたね。よくできるって。でも私には絶対にさせてもらえなかったね。「お兄ちゃんの年になったらね。」いつもそういって、私がその年になった頃にはすっかり忘れ去られてた。そして、私には順番は回ってこなかった。私はね、お兄ちゃんがしてたその時に、私も出来ることを見せたかったよ。私だって褒められたかったよ。出来るんだ、すごいねって言って欲しかった。

お母さんもお父さんも、すごいねって思ってたんだって。この子はこんなにちっちゃいのにこんなにできるって。でも言わないようにしていたんだって。お兄ちゃんの兄としてのプライドを守るために。私のプライドは?私だってできることを褒めて欲しかったよね。言ってくれなきゃわからなかったよね。

いつでもお兄ちゃんは私が取り組んでいることを横からかっさらっていったね。そして私が返してっていっても最後までやっちゃうまで返してくれなかった。お母さんは、なんだって「お兄ちゃんが先」だった。なんで私には全部種明かしが終わってからしか回ってこないの?誰も注目しなくなってからしか回ってこないの?私だってみんなに注目されて格好いいところ見て欲しかった。

お兄ちゃんのおまけは嫌だったよ。言うことを聞かされるだけの役は嫌だったよ。私を私として見て欲しかった。私にも活躍の場を与えて欲しかった。お母さんに見ていて欲しかったよ。お父さんなんか捨てて欲しかった。



久しぶりにボロボロ出てきました。いっぱい涙でちゃった。

やっぱり強く恨みを持っているのは母に対してみたいです。理不尽な行動する父や兄よりも、それを受け入れることを私に求めてきた母に対して。父や兄は無邪気に好き勝手してるだけなんです。受け入れたくなければ受け入れなくてよかった。でもそれで振り回されている母は、より動かしやすい私に言うことを聞かせて、その場を保つのに利用していました。

私も兄も、そして母も、家庭のための道具でした。ばかみたい。うん。ばかみたいって、思ってました。子供の時から。なんのためにこんなことしてんだろって。

私はずーーーーっと母に私を見て欲しかったんですね。子供が出来てから、孫にはすごくいい顔をしている母。もちろん本心からなんですけど、私はずっと複雑でした。焼きもち焼いてたんですね私。母に対しても子供に対しても両方。

「私の時にはそんなに私を見てくれなかったくせに」ってのと、「私の子供たちなのに」ってのとある気がします。お母さんをとらないでよ。子供をとらないでよ。って。

私は子供に対して、やっと手に入れた私を私として見てくれる存在として、母に対しての思いをぶつけているんですね。子供を親にしている状態ですよね、これって。

なんとかしたいなあ。

んーーー。なんかまとまりませんけど、とりあえずこんなところで。
posted by 蝉ころん at 19:29| Comment(4) | 自分育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月13日

1章−3 見捨てられ体験

久しぶりにワークの続きです。



本によると、子供が持って産まれてくるという権利の目録は次のようなものだそうです。

・誰かの期待通りの存在だからでなく、ありのままの自分として大切にされる
・親の喪失を埋め合わせるための存在ではなく、その子自身として慈しんで育てられる
・一貫性と、安全と、理解を与えられ、無条件に愛される。
・ひどく傷つくような状況から守られる

どうだったかな、と考えました。

<家庭で>

ありのままの自分として、大切に・・・無下に扱われた記憶はないです。でも、大切にされたというより、存在を許されていた、という感じです。ただありのままの私でそこにいることができた。

親の喪失の埋め合わせにされていた部分は、ある意味あったと思います。母が、自分ができなかった自立の道を私に歩ませたかったらしいこと、父が、幼少の頃に亡くした父の母の面影を私に見ていたことから、父も母も、私に特定の女性像を夢見ていたように思います。

一貫性はありません。父の機嫌に左右される環境でした。父が怒鳴っているだけで力をふるわれるわけでない環境が安全というなら、安全でした。でも心は安泰じゃなかった。母には、理解されていた方だと思います。ただ私と私の環境を守れるほどの力はなかっただけで。ただ私と言うだけで、の愛情は、受けていたと思います。それなりに。私は人生のレールは敷かれなかったし、家業を継ぎたいという望みとアルバイトをしたいという以外は、ほぼ私が望んだ通りに道を選ぶことができましたし。それを愛情と言っていいのか、今の私にはよくわからなくなっていますけど。

ひどく傷つくような状況からは守られませんでした。父と母が口論している、父と兄が大声で罵っている。私は渦中にこそいなかったけど、傷つきました。渦中に入れないことでもさらに傷つきました。



<学校で>(おもにいじめを受けていた小中学時代)

先生の期待通りの存在でないから、私の能力は認めてもらえませんでした。クラスメイトからも、異端児として阻害されていました。大切にされた経験はありません。

家庭でストレスを抱えた子の発散の道具としていじめられていました。いじめるための存在で、私個人の感情なんて気にされたことはありませんでした。道ばたでいじめられていても横を大人が平気で通り過ぎるので、いじめられる子は放っておかれるものなんだと体で覚えました。

一貫性はありました。私には権利がないという形で。安全はありませんでした。一人でいても、常に周囲に気を配っていました。大勢でいたら、常に心に壁を作っていました。理解は得られなかったし、無条件で迫害されていました。ただ私だからという理由でいじめられていました。

傷ついていても、いじめられる方に原因があるわけで、身を守るのは私自身がすることでした。先生はむしろ、いじめを助長して、傍観していました。



けっこう権利を踏みにじられてる、と思っていいんでしょうね。私は家庭でのことより、学校でのことに深く恨みを持っている自覚がありますけど、ただ存在することを許されていた家庭と違って、学校では存在しているだけでいじめられていたので、一つも権利を認められてなかったんですね。もちろん「教育を受ける権利」はありましたけど。

ただ、学校に強い恨みを持っているのは、それだけ執着も深いということなんだとも思います。マイナスの関わりでも、ないよりマシなんだという話もあります。家庭ではほとんど放置でしたから、いじめという形であれ私を構う存在のいる学校に、しがみついてしまっていたのかもしれません。



<身体的な見捨てられ体験>

身体的には、家庭では全く不自由なく育ちました。栄養も考えてくれた食事、暖かい部屋、暴力もない。兄弟喧嘩こそしたけど、私もやり返していたし、言いつければ母は兄を叱ったし、対等な立場でのやり取りだったと思います。

学校では暴力をともなういじめがあり、先生も根本的な介入をしようとはしてくれませんでしたから、常に安全を脅かされていました。テスト中にカンニングの冤罪を受けたり、忘れ物をして廊下に出され授業を受けられないなどは教育を受ける権利も剥奪されていたかも、と思います。

給食の時間には、食が細くて食べきれないのに大量に盛られたり、食べ終わらないとそのまま掃除が始まって、ほこりの立つ教室で砂の味のするおかずを食べたりと、衛生面での安全も守られていなかったと言えるかもしれません。



<情緒的な見捨てられ体験>

・親が子供の感情やニーズに無関心だったり情緒的に不在の状態が続く

まんまです。父はほとんど物理的にいなかったし、私に取って親といえば母。でも、私が構って欲しい時には母はおらず、母のいる時間帯は母は忙しくて、いつも兄と二人で遊んでいました。兄に泣かされたときでも、母は兄を叱るだけで、私を慰めたりと言うことはありませんでした。ただ母がめんどくさくならないように、私を泣かさないで欲しかっただけなんでしょう。

・受け入れてもらうために自分の感情を隠さなければならない

「それくらいのことで泣かないの」というのはよく言われました。しつこく泣いていると放っておかれました。年子の兄に許可されたことでも私には許可されないことがたくさんありました。私にもできると言っても受け入れてもらえませんでした。私はなにができるようになっても、「当たり前」でした。自分でも、そんなもんなんだと思ってました。

まったく愛情を示されたことがないです。親の年代では仕方ないことなのかもしれませんけど、言葉でも態度でも、とても大切にされている!と実感するような行動を示してもらったことはありません。高校の頃、家族旅行に行った時に私の寝顔を写真に撮られていて、それを見た母が「かわいいねえ」と言ったので、そこで初めてお母さんは私がかわいいんだ、とびっくりしたくらいです。もっと早く示してくれたらよかったのに・・・でも、この一言で、私はずいぶん救われたように思います。



これだけ書いて思ったのは、家庭ではやっぱりネグレクトに近かったのかなと。言葉も、スキンシップもほとんどなかった。こちらから働きかけて、ほんの少し返ってくるだけでした。よく邪魔にされていました。だんだんと親に関わろうとしなくなりました。そのうち成長すると、関わりが増えてきました。このころは、もう親に頼られていたようです。相談相手になっていました。

子供としては、見捨てられていたようです。
posted by 蝉ころん at 16:07| Comment(0) | 自分育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月12日

まだまだワークから外れています

最近子育て関係の情報をよく読むようになりました。

実際に子育てに必要だから、というのもあるんですが、今までほとんど気にしなかったのにここへきて急に、というのが自分に取って何か意味があるんだろうと思います。自分のチャイルドを育てるためという意味もあるのかもしれません。

チャイルドを「あなた」、私を「お母さん」と呼称してチャイルドの癒しをするようになってから、止めどなく泣いてしまうことがなくなってきました。まだそれほど長い期間は経っていないので、はっきり言い切ることはできませんけど、自分の中では、かなり手応えを感じています。

思えば、私が「ママ」という呼称を嫌って、子供には頑に「お母さん」と呼ばせていたのも、私自身が母を「お母さん」と呼んでいて、まだ「お母さん」を必要としていたからなのかもしれません。

最近も、子供のため、子供のため、と、夫から離れるのか共存するのかを悩み続けていますが、この悩みにも、私のチャイルドのため、が含まれているような気がしてきました。

私はいま3人の子供を育てているんです。夫も子供ですけど夫を育てることはもう手放してますから、数には入れていません(笑)。泣き虫の私のチャイルドと、拗ね魔の上の子と、甘え盛りの下の子と。3人兄弟と思えば、上の子にストレスがかかっているのもますます納得がいきます。真ん中っ子のようなものだったんだなって。

でも私のチャイルドは、声に出さなくても、子供たちにバレないようにかわいがってあげられるので、焼きもちを焼かれたりすることはないと思うんですけどね。

大人の私も育てています。子供を叱らずにイライラを乗り切ったときなんか、ベタ褒めです。「エライエライ!よくがまんできたね、母親の鏡!」って。かなり子供扱いですけど。これでいいんだ!っていい聞かせながらやってます。私、褒められベタなんですけど、自分で自分を褒めているうちに褒められ上手にもなれたらいいな〜なんて思ってます。

このときも、褒める私は「お母さん」、褒められる私は「あなた」です。「他者」の立場で褒める、褒められることに意味があるんだと思ったから。以前も、自分で自分を褒めるってしたことがあるんですけど、「私って偉いな〜スゴイ!」なんてしてても、なんか虚しいんですよね。それに、なんだかナルシストっぽい危うさがあるでしょ?でも、「他者」を登場させると、妙にこっぱずかしいものの、じんわりあったかくなるような満たされるような感覚があるんです。

今まで、私の中にいた「他者」は私を監視しているばかりだったけど、見守ってくれる「他者」を育てればいいんだなって、なんとなくわかってきました。

それで、子供関連の知識の収集に向かっているのかな〜って。自分を見守って育てるためですね。それが結果として子供たちのためにもなるんなら、まずは自分に実践してみるのも悪くない。子供を健やかに育てるためにも、健やかな自分を育めたらいいなって思います。



このへんのことは、夫との関係とは、また別の話です。相変わらずコントロールを手放そうとしない夫は生活費を切り詰めてきましたし。

夫と過ごす時間に効くように薬を飲むようになって、さらに、この「他者」の視点を手に入れてから、ますます夫のことがどうでも良くなってきていますけど、こういう時こそ要注意なんですよね。夫は自分の上位を見せつけるため攻撃がすごくうまいですから。こちらが道を見つけたと思って油断した頃に必ずなにか仕掛けてきます。生活費切り詰めもその一環でしょう。負けるもんか!

同居中の皆さん、年末年始も控えているし、気を締めていきましょうね!
posted by 蝉ころん at 10:10| Comment(2) | 自分育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月22日

足踏み その2

wingseedさんにコメントを書いていて気付いたことがありました。

私は、私の存在感の無さアイデンティティにして生きていたのかもしれないです。

夫と結婚して、退職するまでしばらく家事は半々でやっていました。それは、家事そのものの負担を半々にすることだけが目的だったんではなく、「私がいなくなっても夫が困らない」ということを目的に、夫に家事を教え込んでいた面がありました。

子供を産んでからも、夫にはなるべく育児に関わらせていました。いくら嫌がろうがウンチのおむつ替えをさせ、ほぼ完全母乳だったにもかかわらず、ときどきミルクを夫にあげさせたり、お風呂に入れさせたり、食事の世話もさせたり。

おかげで、夫は家事も普通にできるし、子供の世話も余裕でこなします。

私は夫の世話をしないという形で、夫を育てるという形で、夫の世話をしていたのかもしれません。その点で私は母のような振る舞いをしていたかもしれません。

そして、上の子も、そんな風に育てていたように思います。私がいなくても大丈夫なように、近所の人達にも馴染ませ、夫にも懐かせようと、私との関係より、他の人との関係を重視して育てていた気がします。

生活面でもそうでした。なるべく自分で色々なことができるように、1人でも生きていけるように、そんなふうに育てていました。

私は私の存在を消すべく生活していました。私がいなくても生活がまわるように、誰も困らないように。

このとき、まだ私の中の「死んだらいい」という選択肢は有効だったんじゃないかと思いました。「死ねるように」生活するということが、いつのまにか私の生き方になっていたんじゃないでしょうか。



それが変わったのは、上の子のトイレへの異常な執着を目の当たりにして、このままではいけない、と自覚した日からでした。

子供の気持ちを見ようとするようになったし、家事を後回しにするようになったし、自分の楽しみも捨てないでいようとするようになった。遅くまで帰ってこない夫をアテにもしなくなった。

私はやっと生きようとしだしたんじゃないか。

家事を後回しにするということは、次のタイミングに自分がいることをアテにしていることです。私が突然いなくなったら困ることを作っていることなんです。私は明日もここにいる。そんな、普通なら気にもしないことを、やっと自覚して生きだしたような気がします。

私が私の存在を残すようになった。存在を自分で認めるようになった。そんな変化が、あのとき、私に起きていたように思えてきました。私が自分の存在を消そうとしていることを、子供が教えてくれたんだ、と思えてきました。




それからこれは、夏草さんのブログともかぶりますが、私が自分の存在を認めだしたこの時期は、夫の在宅時間が極端に減った時期とも重なります。

夫の呪縛が溶け出したころなのか・・・?そんな気もしてきました。
posted by 蝉ころん at 21:53| Comment(4) | 自分育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月20日

少し足踏み

自分の過去を書いているうちに思い出したことです。

私は、小さいころ「死にたい」と思いながら生活していました。幼稚園時代はあまり記憶にないのでわかりませんが、「死」という概念を知った頃から、既にそういう願望があったように思います。

私にとって、死は、痛みを伴うであろう恐いものでもあり、現状から逃れる救いでもありました。

最後の最後には死ねばいい。だから今は頑張ろう。死ぬ方が恐いうちは、とにかくやりすごそう。

ずっとそう思って、いじめも耐えてきました。

どうしようもなくなったとき、死を選ぶことができる、という、最後の選択肢は、私を勇気づけてくれました。

そして、いじめの現場から脱出し、男社会で生きて行く術を手にするにつれて、この選択肢のことは意識にのぼらなくなりました。



今、夫と暮らしていて、またときどき「いっそ死ねたら」と思うことがあります。でも、昔は「いつでも死ねる」と頑張れたけど、今は「死ねない」「死ぬわけにはいかない」と思います。子供にそんな傷を負わせられない。きっと一生罪悪感を背負ってしまう。

前向きになれたわけではありません。逃げ場を失ってしまっただけ。私はいつのまにか最後の選択肢をふさいでいたんです。

死ぬことは逃げることかもしれない。たしかに卑怯なことかもしれない。でも、私にとっては大切な切り札だった。私が子供を産みたくなかったのは、子供に対して責任を負いたくなかったからかもしれません。

私は子供と引き換えに、最後の選択肢を手放していたんです。

夫の生活で閉塞感を感じるのは、このせいもあると思いました。
posted by 蝉ころん at 15:09| Comment(16) | 自分育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月17日

1章−2 硬直性 シェイム

続けます。


「硬直性」

問題を抱えた家庭にはたいがい存在するという、硬直したルール。うちには特になかったような気もしますが・・・。

<どんなルールが存在していたか、それが今の自分に影響しているか>

・父が家にいるときは、父の意向が家庭の動向を決める指標だった。

機嫌のいいときの父は、気さくで、にこにことしていて、子供のゲームを一緒に(自分の方が夢中で)するような人で、子供の立場でいるうちは、緊張感はなかった。ただ、何か父が不満に思うことができると、「お母さんはどこ行った?」などと言い出し、欲求が満たされないと、とたんに大声で母を怒鳴りつけた。不満の原因が直接は私や兄のしたことであっても、全ては母にぶつけられた。

父が「出かけよう」と言えば、みんながそれに従ってすぐに用意をして出かけたし、準備が遅ければ突然父が怒鳴りだして中止になり、父だけが出かけてしまう、といったことは日常茶飯事だった。それも、私たち子供の用意が遅かったとしても、全責任は母にかかっていて、父の怒りが向かうのは母だけだった。兄は、自分のしたことで母親が責められるのがいやだったようだけど、結局は父に従うこともできず、逆らいつつも自分をも責めている母に当たるようになって行った。

→ 今、私が夫に対してとっている行動は、母のとっていた行動にとても似ている。夫がいるときは、夫の意向を最優先、私のしたいことがあっても、わざわざ夫がいる時に波風立てて居心地の悪い思いをするよりは、夫がいない時にすればいい・・・という考えで。

子供がいない頃はそうではなかったと思い込んでいたけど、それは自然にしていたことじゃなかった。父と母の暮らしぶりを見ていて、ああだけは絶対になるまい、私は自己主張をしっかりするぞ、と意気込んでのものだった。だから、子供ができて余裕がなくなったら、馴染んでいたやり方、身に付いていたやり方が表に出てきたんだろう。それから、「母」となったことで、より私の中の「母」のモデルである母に近づいてしまったんだろうと思う。

・父がいないとき、ルールを決めるのは母だった。兄が成長するに従って、兄がいるときは兄がルールになった。

私は、父が母に無理難題を言い出さないように父の世話を焼き(ただし家事は底なしになる予感があったのでしなかった)、兄の逆鱗に触れないように物音も立てないよう存在を消して生活し、母がリラックスできるように話し相手になって暮らしていた。

父がいれば父が怒鳴り、兄がいれば兄が怒鳴り、父と兄のいない時にだけ、平穏があった。私まで我侭を言い出して母を困らせることはできず、私はほとんど何も要求しない構成員になっていた。

→いまだに、私は聞き役になると落ち着く。夫と話し合っていても、たいがい途中で夫が自分の自慢話を始めるのだけど、私は特に異存もなく、ただ夫の話を聞いてしまう。私は自分のことを話すことよりも、人の話を聞いているだけの方が楽な人間になってしまったらしい。だからといって、聞き上手じゃない。ただ自分のことを話したいだけの人間に囲まれていただけで、途中で私が相づちを打とうが、私のことを話そうが、相手は意に介さず自分の話をまた続けていたから、会話のスキルなんて全然育たなかった。むしろ、人が話していると、ただただ聞いているだけで、話を向けられると困ってしまうようなところがある。


・・・ちょっと、「硬直性」というテーマからは外れてしまった気がするけど、あえてルールにしてみたら「上のものがいる間は個性を出してはならない」という感じ?私は家庭の中で底辺に存在していたようです。




「シェイム」

悪いことは自分のせいだと思ってしまうような、自己否定感。自分の力ではどうにもならない、という無力感も入るでしょうか。

私は、家庭では、とくに存在を否定されて育った、という意識はありません。ただ、優先順位がとても低かった、という意識はあります。

いじめにあっていたころ、毎日のように辛い目に合って学校から帰ります。家に帰ると、鍵が閉まっていて、仕事場に鍵をもらいに行きます。そこでは母が、子供相手に優しいまなざしで、語りかけながら相手をしています。私は、鍵だけを渡されると、仕事の邪魔だから、と一人で家に帰されました。そして、家に入って鍵をかけると、電気持つけずにソファでうつぶせになって、一人で泣いていました。この、ソファで泣いている私は、私の原風景、とも言えるイメージで、よく記憶の中に出てきます。

私は、はっきりと拒絶も否定もされていなかったけれど、家族に私を否定していたつもりがないことも知っているけれど、それでも私は、幼稚園でも学校でも家庭でも、無力感を感じて育ってきました。私がいくら家族間の関係を調整しようとしても、ほんの少し、父が思ったことが実現しなかっただけで、突然険悪になってしまう。

女というだけで、家業の主力を担う夢をあきらめさせられ、体力も気力もやる気も家業に向いていないように思われた兄が、意欲もないのに無理矢理跡継ぎにされる。

私は女の私を受け入れられなかった。親戚の家に遊びに行っても、子供のなかでは私だけが女で、いつも仲間はずれにされていた。親戚のおじさんおばさんには、ただ一人の女の子、というだけでかわいがられたけど、「女」というだけでかわいがられていることが不満でしょうがなかった。私だから、と思って欲しかった。

私は、自分が無力なのを、全部「女」という性のせいにして、女であることが許せなくなっていった。「女」は無力の象徴だった。母が父に従っているのも、兄に振り回されているのも、母が「女」だからだ。私は女としての生き方はしない、と、いつからか心に誓っていた。無力な「女」を捨てることで、私は自分の力を取り戻そうとした。

それは一見成功し、いじめの現場から脱出したとたんに私は「男」のように振る舞い、生き生きと学生生活を楽しめるようになった。乱暴な言葉遣いをし、部活動に精を出して力をつけ、夜遅くまで家に帰らず(部活動でだけど)、髪はどんどん短くなった。

大人になってもこの意識は変わらず、職場に入っても、女だからというだけで、作業着でなく制服を着なければならないとか、給料が低いとか、就業時間内にやたらと話しかけられたりとか、男性から手助けをされることにまで無性に腹が立ったりした。

やっと女の自分を意識しだしたのは、夫と付き合いだしてから、ひょっとすると子供ができてからかもしれない。「女」の自分に戻ったことで、無力であることまで受け入れてしまったのかもしれない。




今日は、なんだか、思考がテーマから外れまくってしまってうまくまとまりませんでした。まだ22ページです。いったいどれだけかかるでしょう。ちゃんと続くか心配です。(^^;


追記あります
posted by 蝉ころん at 15:26| Comment(2) | 自分育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月15日

1章−1 否認・孤立

一回通して本を読んでみました。これから、本に従って、最初からやっていきたいと思います。



まず・・・「否認」

実際に起きたことを、感じた通りに認識することを妨げる防衛反応・・・ととらえました。「話さない」「感じない」「信頼しない」というやり過ごし方を身につけてきた、ということのようです。

まず、子供の頃の家庭環境を振り返ります。幼児期までのことはほとんど記憶がないので、学童期以降のことになります。思いつくままに書いたので、大学生のころのことまで混ざっています。

<家庭の中で抵抗なく話すことができたこと、できなかったことのリストをつくりましょう>

・抵抗なく話すことができたこと

 学校であった楽しかったこと。

 兄にいじめられたこと。小学校低学年までは全て兄のせいになり、私はあまり叱られなかった。私が泣かないようにすることが、兄の仕事だった。部屋を片付けていない、などの、共同責任のことは私も叱られた。

 テレビの話題。一番当たり障りがなかった。


・オープンに話すことができなかったこと

 学校でいじめられたこと。どうせ先生に言われて終わりだし、余計ひどくなるだけだったから。

 学校での忘れ物について。ただ言いたくなかっただけ?どうせ母に頼むつもりはなかったし、自己責任でやっていたから。ただ、母親に手伝ってもらっている同級生と比べられるのはいやだった。母が絡んでも事態が改善しないことを怖れていたかもしれない。母の名誉まで傷つけるから。

 父についてのこと。朝は子供が学校に行ってから起き、仕事が終わったらそのまま遊びに行ってしまう人だった。それでも、夜は「用事に行っている」ことになっていた。歯が悪いことを理由に、父だけグレードの違うおかずが出ていたりしたが、ただの好き嫌いだった。度々大声で怒鳴るが、それは耳が悪くて自分の声の大きさがわからないせいで、乱暴だからではないことになっていた。壁に一カ所、穴を隠すための絵がかざってあった。その穴は、幼少の頃に私か兄が(たぶん私だろうと思う)、買ったばかりのソファに油性ペンで落書きをし、それに怒った父が壁にソファを投げつけて開いた穴だと言うことだった。父の前では絶対に口にしてはいけないことだった。

 母が泣いていること。母は泣いていないことになっていた。誰が見ても泣いていたのに。

 兄のこと。兄は登校拒否児だった。父、母の行動が追いつめていると漠然と思っていたけど、私には発言権はなかった。

 家業のこと。食卓で、父、母、兄は、携わるものとして当然意見を出し合っていたが、外の立場から私が何かを言うと非難された。私は食卓にいながら会話に入れず一人で食事をしていた。そのくせ、みんな一人一人になると私に悩み話を聞かせた。

 私のこと。私の悩みも楽しみも、家族には関係のないことだった。無関心にされたり、私が期待しているより軽く受け取られることを怖れて、私は何事もないように振る舞っていた。




自分で書いて少し驚きました。私は家庭の中ではわりと好き勝手に振る舞っていたから、自由に話せてないなんてあまり思っていなかったけど、思い出してみたら私が家族と話していたことと言えば、ニュースの話題だとか、天気の話題だとか、あとはその時の相手の話したいことをただ聞いて、答えて欲しいと思っていることを答えているだけで、私自身が話したいことをほとんど話していませんでした。話したいことそのものを考えていなかったかもしれません。それが「否認」ということでしょうか。

私以外の家族が、感情を剥き出しにして罵り合うようにしてぶつかり合っていたのに対して、私は家族の生々しい感情を私に向けられた経験はほとんどありません。かわいがられたという感覚はありますが、私自身を見ていない、かわいがりたいという自己満足が見えていて、しかもそれを喜ばなくてはいけないような義務感をともなうものでした。

そして、私はみんなの話し相手になることで、相手がほかの家族に対して抱いている生々しい感情を第三者の立場から感じていました。私はいつも、部外者で、傍観者で、アドバイザーで、仲裁者でした。誰かがそばにいると、自然にその役割になってしまうので、自由に自分になれる、1人になれる場所が必要でした。そういえば、小学校低学年のうちは、いじめられて帰っても仕事で誰も慰めてくれる人のいない家が嫌いだったけど、そのうち、一人で好きなだけ泣ける、泣きつかれて眠っても放っておいてくれる、一人の空間が必要不可欠になっていました。



ここまで書いて、次を見たらちょうど「孤立」でした。

<他の家族に対して感じていた親しさや距離感を絵に書きましょう>

ということですが・・・。描いた絵を説明すると、四角いテーブルを囲んで、家族で夕食をとっている。父、母、兄の3人は険しい顔で仕事のことについて話し合っている。大声でけんか腰で。私は1人、うつろな目で母の後ろにあるテレビを、母が動くたびに見えたり隠れたりしているテレビを、見ている。

そんな絵になりました。物理的には近いのに、決して中に入れない距離感が、そこにはありました・・・。




今日はこのあたりで。
posted by 蝉ころん at 15:24| Comment(4) | 自分育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月10日

「喪失」で思い出したこと

「子どもを生きればおとなになれるーインナーチャイルドの育て方」という本を読み始めました。

これから、この「自分育て」のカテゴリで、心の中を書いて行きたいと思います。些細なこと、と思って書かないでいたことも、どんどん出して行きたいです。



まず手始めに「喪失」の項を読んで、比較的最近のことで思い出したことを書きます。直接は関係ないことなんですけど・・・。

夫との関係に絶望を感じ始めた頃、近所のスーパーが閉店しました。

私はこのとき、悲しくて悲しくて仕方がなかったんです。店にいっては、閉店のお知らせの看板を見て涙をこらえながら買い物をしていました。

確かに毎日のように買い物に行っていたけれど、たかがスーパーです。馴染みの店員さんがいるわけでもありません。

それなのに、自分でも訳が分からないくらい、ただただ悲しかったんです。今も書いていて思い出して泣いてしまいました。

近所のスーパーが閉店しただけですよ?おかしいでしょう?この反応。しかもいまだに引きずっているって・・・(書いてみて初めて引きずっているのを知りました)。

やっぱり何か、一番原因となる喪失体験がどこかにあって、それを解消してやらない限りは、またこんなことが繰り返されるんだろうと思いました。夫とのことも、それだけで傷ついた部分ももちろんあるんだけど、それに刺激されて、封印できていたはずの感情がでてきて、それが影響し合って落ち込みがひどくなったりしているんだろうと。

これから、少しずつ書かれていることを実践してみたいと思います。
posted by 蝉ころん at 14:33| Comment(3) | 自分育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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