2010年02月18日

何度でも何度でも

ハラレル体質はやっかいです。

前記事でも書きましたが、このところ過去記事を辿ったりしていました。

「だいぶ長い距離を進んできたなあ〜。あのころとは別人になったなあ〜」なんて、感慨をもちつつ読んでいたらば。「あれ?これ、次に書こうと思っていたことに似てる・・・。あ、これなんかさっき思いついたことそのまんまだ・・・」みたいな記事が大量にありました!

忘れてる・・・?

いや、覚えてるんです。記事を読めば、はっきり覚えてるんです。忘れてるわけじゃない。記憶とつながってないみたい。

何回も何回も同じことを今発見したことのように閃くんです。でも、前回閃いたときのことは思い出さない。

生き癖ってこういうことなんですね。記憶を塞ぐように育っている。そうじゃなきゃ生きて来れなかったから。頑張ったんだな〜ちびころん。



よっしゃわかった。上等じゃん。何度でも発見してやる。何度でも書いてやる。

何度でも何度でも。発見して、書いて、回路を太くして、忘れないようにすればいいんじゃん。

今までは割と(これでも)読まれることを意識して書いていたから、同じような内容は書かないようにって気にしてたけど、もう気にしな〜い。

じゃんじゃん思いついたことを書いていきます。

「これ読んだよ」と思っても、酔っぱらいの戯言とでも思ってくださいね〜。

あ、「またおんなじ事書いてるよ」ってコメントは大歓迎です☆それもまた記憶の強化になると思うので。
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2010年01月27日

私とモラ的な人との関係

仕事をするために外へ出て、見えてきたことがいくつかあります。

今日は、私とモラとの関係のこと。

何回か就職をしましたが、どこも上司や上層部がモラでした。そして当然ながら、下は被害者・小モラの群れ。

やはり中途で半端な人数を採用するようなところは職場環境が悪いために人が辞めて欠員を募集、みたいなパターンが多いのかもしれません。

だからといって中途で仕事を探すことに絶望することはないし、とにかく、職場環境が悪い時も「自分の働きが悪いからだ」なんて気にすることはないんだと思います。



話がそれましたが、本題に。

こんな環境を数件経験して見えてきたことがあるんです。

「どうやら私はモラには好かれないらしい」

これです。

とにかく、私との会話を避ける避ける。会話になったとしても、構える構える。

モラのターゲットになりにくいタイプらしいんですよね。実は元夫とのことでも思い当たります。付き合うことになったのも、共通の友人がきっかけで、元夫からは全くアプローチはなかったし。付き合い出したことになってからも、元夫からのアクションはほとんどなかったしわけだし。

モラ的な人たちは、自律している人たちはターゲットにしない、できないといいます。私は、自律している側の人たちのようなふるまいをしているようなんですね。

じゃあなぜ、ターゲットになってしまったのか。

私が近づいて行ったからです。



ほぼ無意識なんですが、事実でした。内部の人間関係が見えているにも関わらず、自分がそういう行動を取っているのがわかった時はかなりのショックでした。

上司は、普段から下の人たちを何かにつけて構います。チクチクとハラスメント行為をしていることもあれば、普通に楽しく雑談をしていることもあります。キープしている段階です。

私はこういう中に、入っていこうとしてしまうのです。私の親がそういう人物だったから、そういう親に認められたかったからなのかもしれない。認められている人が羨ましくなってしまうのかもしれない。思えば、初めて私が家業をやりたいと父に伝えたときに父の言った、「女にこの仕事はできない」の言葉に、どれだけ私は振り回されてきただろう。

兄に対して嫉妬もした。女であることを否定して男のように生きようともした。技術社員総出で海外事業に出張があったとき、私一人だけ女だからメンバーから外されていた時のショック・・・。

女であることを受け入れたら、いいこともたくさんあったはず。父に受け入れられないことを諦められていたら、もっと自然に生きられたはず。

とっくに家業に入ることは見切って生きてきたつもりだったけど、父に認められたい思いはずっと諦められずいたのか・・・。時間はかかるかもしれないけど、もうこの執着は手放したいと思います。



私は父と母の関係を見て育ち、母の行動から、してはいけないことなどを学んでいました。ああはなるまい、とずっと思ってきた。そのことで、ターゲットにならない行動がとれるようになっていたのかもしれません。

せっかく身に付いている「モラに嫌われる」資質を生かして、モラを遠ざけて過ごしたいものです。
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2007年11月07日

働く動機

今日も更新します。時間のあるうちに通勤中に考えていたことを、書き留めておきたいので・・・。



今、私はは生活のために職を探しています。

でも、私はもともと働くことを目標に思って生きてきました。元夫との生活で専業主婦をしているときも、出来ることなら、隙あらば外に出て働きたいと思っていました。

今まで、私が働きたいのは実家から逃れて私1人で生きるために必要だからだと、そんなふうに思っていましたが、働いてみて、そこで得た感覚から、そうではなかったらしいことに気付いてきました。



私は、1人でいると本当に何もしない、だらけた人間です。でも、いざ外に出て人と関わると、全く別人のように動くことができます。自分でもびっくりするほどに。昔は、この、私が動けるときと動けないときの区別がはっきりしていなかったので、「私はいざとなったら動けるんだ」な〜んて考えていましたが、実はそんなことはありませんでした。

離婚に際して、元夫が家を出てからのだらけっぷりといったらそれはもうすごいものです。離婚のためにしなければいけないことのもろもろが、全く手につかない。最初はうつがあるから、と思っていましたが、そうでもない。いざとなっても動けないことがはっきりしました。(^^;

どうも、私は自分のためのことには手がつかないようなのです。

外に出て、働いているとき、誰かの役に立つことをしているときは、ものすごく身体が動きます。

これ、「人のためになることがしたい」とか「人の役に立つことが好き」なんてものじゃありません。私は、「自分の仕事っぷりを見てもらうのが好き」なんです。それで話のネタになったり、褒められたりするのが嬉しいんです。

ようは、「私を見て欲しい」

それだけ。(注目されたくてアイドルを夢見る小学生みたいな・・・)

家の中で、1人で、子供しか住んでいない(または仕事ぶりでなく惨状しか目に入らない元夫がいる)家を管理しても、誰も見てくれないし、褒めてもくれない。話題にさえ上らない。私がしたことは、私がそこに存在したことは、まるで意味のないことのように、もともとなかったことのように、ただ通り過ぎていくのです。それは実家でも同じでした。私はそれが嫌だし、怖いんです。

私は、私が存在している意味が欲しい。私がいることを認識して欲しい。

私の働く意味は、そんなところにあるようです。

今回辞めた職場では、そういう経験ができました。特に無理をして限界以上の力を出さなくても、仲間に認めてもらえた感触がありました。

外に出れば、私の働きを認めてくれる人がいる。私を役に立つ人間と思ってくれる人がいる。私は役に立ちたいんでなく、役に立つと思われたい、役に立つと言って欲しいだけなんです。



若い頃働いていたところで、私が教育係となって新人の面倒を見ていたときにこんなことがありました。その相手が壁にぶつかっていて、「アドバイスもできるけど、自分の力で乗り越えられそうだからあえて言わないでおこう」と思っていたことを、その後他の誰かが教えていて、「教えてもらったんです」と報告された時、すごい怒りが沸きました。

その時は、「自力で乗り越えられた方が本人のためなのに」という怒りのつもりでいましたが、ほんのささいなことなのに、怒りは尋常ではありませんでした。

「私だって教えることができた」はずで、「私が受けるはずだった賛辞」を他人が受けていたことが許せなかったんです。また、その相手が自力で出来たことを一緒に喜びたかったのにそれを潰されてしまったという面もあります。私の存在意義を奪われたことへの怒りだったんだと思います。こんな怒りをぶつけられる方はたまったもんじゃないですね。いや、さすがに当時もぶつけてませんけど。(^^;



自分の動機と欲求がわかったから、これから働くことで少しずつ満たしていけたらいいなと思います。子供たちは私の存在を認めてくれる存在ではあるけれど、私の成したことを破壊する存在でもあるし、それに子供への依存は極力なくしたい。私自身が子供たちの存在を認める存在になりたい。そのために私にはやっぱり外での仕事が必要です。欲求を満たすことのできる職場を選ぶことが大事ですね。生活もかかってますが、やっぱり幸せにもなりたいですから!

そして欲求が満たされていったら、本当に私がしたいことも見えてくるかなあ・・・なんて期待もしています。(^_^)
posted by 蝉ころん at 14:35| Comment(6) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月03日

他人への信頼と不信

昨日の記事の続編のような。

昨日は、私が集団への不信と自己不信から自分の存在をなるべく消そうと行動しているらしいことを書きました。

ただ、私は不信というか不安を持っているのと同時に、集団に対してある程度の信頼も感じることがあります

どうしてもそこにいなければいけないという関係でなければ、不安をあまり感じずに自分を出すことができます。すると、たいがいそういう関係では、相手は私を受け入れてくれるし、相手もそれなりに自己開示してくれます。すると、さらに安心感が生まれて、その場に対して信頼を持つことができるんです。

何が違うのかというと、いざ何かあった時にその関係から逃れられるかどうか、ということでしょうか。

考えてみれば、私が苦しんでいた当時の集団は、家族、学校、夫婦・・・と、普通はそう簡単に逃れられない関係ばかりでした。

逆に、信頼感を得ることができた集団というと、クラブ活動、サークル活動、私的な趣味の集まりなど、自分から抜けるのが簡単なものでした。


モラハラを知って、色々知識を得ていった時、必ずと言っていいほど「逃げてもいい」「離れるという選択もある」「そこだけが世界じゃない」などの、そこにいなくてもいいんだ、というメッセージが含まれていました。

「逃げられない」ということが、どれだけ精神的に追いつめられることかを知りました。それから、どれだけ自分の場所をつくれるようになっても、「逃げられない」心理状態に陥ると、やっぱり「逃げられなかった」頃の自分が出てきて、追いつめられてしまうこと。


いつでも、どんな場所からでも、逃げることは出来る。そこだけが世界ではない。

一つのことに集中して長く続けることがいいことだ、いろんなことに手を出して一つところに落ち着けないのはダメな証拠だ、って植え付けられて育ったけど、こんな固定観念に縛られてなくていい。

自分の居場所を見つけるまで、何回でもやり直していい。逃げたっていい、諦めたっていい。どこかに私の場所がきっとある。

逃げられないと思わなくていい。もう一度逃げることができたんだから、またできるはず。脱出することを恐がらなくていい。それで私の価値が下がるわけじゃない。私はそのまま。私のまま。堂々と私でいればいい。


・・・最後は自分に言い聞かせてしまいました。(^^;

「逃げられない」は、自分で自分を縛るキーワードなのかもしれませんね。「逃げられる」「逃げていい」「離れていい」・・・で上塗りしていきたいと思います。
posted by 蝉ころん at 06:34| Comment(4) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月02日

知られる恐怖

これも最近気付いたことですが、私は普段、無意識に気配をなくしています。

存在感がないというのではなく、人目につかないように行動しているということです。存在をなくしたいという意志があるかのように。

これも子供の頃からの癖で、最初は意識していたはずなんですが、いつのまにか習慣になっていて、大人になった今でも気が付くとそうなってしまっています。

先日びっくりしたのは、家で万歩計を付けていた時のこと。

ひと家事を終えて、ふと万歩計を見ると、一桁で止まっています。壊れたかな?と思って歩いてみると、ちゃんとカウントされるんです。でも、歩くことに意識を向けないで動くと、カウントされない・・・。小さいころから、音を立てずに歩くことを意識していたおかげで、上下動の少ない歩き方が身に付いてしまっていたようなんです。

忍者かよ・・・


家庭環境と、小学生時代のいじめ、夫との生活、で、強化された気配を消す習慣は他にもあって、主に音関係なんですが、

・直接話したい相手にしか届かない程度の声で話す

・テレビは聞こえるか聞こえないかギリギリの音量

・話をするとき以外はほぼまったく人の顔を見ない

・ヒールで歩くと音が大きくてはらはらする

・雨の日にツルツルの床をゴム底靴でキュッキュッ鳴るのも嫌

・人のいるところで電話をすると声が小さくなり過ぎる


などなど・・・とにかく、私が今ここにいる、私は今こんなことをしている、私が話していること・・・私が私として行動していることの全てを、他人に知られたくないんです。

知られることにものすごい恐怖を感じてしまうのは、嘲笑される恐怖でしょうか・・・。間違ったことをしていることを知られる恐怖です。間違ったことをしてるわけじゃないはずなんですけど、ずっと、そういう、私が何か行動するとバカにされたり、怒られたり、人格否定されたり・・・という経験を繰り返した結果の習性なんだろうと思います。

私がリラックスできるのは、1人でいる時だけ。いくら仲のいい人と一緒にいても疲れてしまうのは、突然何が原因で嫌われるか、バカにされるかわからない、という経験から来ている恐怖のせいだと思います。

だから、オフィスでの常識とされる、ホウレンソウ(報告・連絡・相談)が、ものすご〜く苦手です。まず声を発するのにパワーがいるのに、職場って、直属の上司だけじゃなくてまわりの人にも声が聞こえちゃう。それが業務がうまくいってない報告だったりすると、すっかり体が萎縮してしまって、さらに声が出なくなってしまいます。

こういうのって、なに必要ないところでうじうじしてんの?って感じになるんですよね・・・。それがまた恐怖感に輪をかけるんですけど。

言うべきことが決まっていれば、声は出せるんです。「私」じゃなくてもいいなら、存在を主張することができるんです。

これって、私が私であることの責任をとれなくなってるってことなんでしょうねえ。


私は私でいていい。誰にどう思われようと、私でいていい。

そんなに逐一私の行動を見張られているわけじゃない。誰も私の失敗を嘲笑ったりしない。

自分に対する信頼、他人に対する信頼を持てるようになれば、克服できることなのかなあと思ってはいますが。まだ見つけたばかりの習性なんで、長い目でゆっくりとりくんでみたいです。
posted by 蝉ころん at 09:52| Comment(0) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月22日

興味を示すこと

前回の記事で、夫が自分以外の人間にまるで興味がなく、自分の感じているものだけの世界に生きているらしい、ということを書いた。

この、他の人間に興味がないという部分、実は私も似たようなところがある。

それには二つの側面があることに気が付いた。興味を持っていることを示すことに対する恐怖と、興味を持つ余裕がない状態。



一つ目は、実は興味を持っているのに外から見ると興味がないように見えるだろうという場面のこと。

私は、人に興味を示すのを躊躇してしまうところがあって、これも、学校生活でいじめを受けていたことがかなり影響しているように思う。

私は、いじめっ子たちとなんとかして仲良くなりたいと思っていた。いじめっ子たちには、たいてい取り巻きがいて、いつも賑やかにしていた。それが私は羨ましくて、その中に入りたかった。それで私は、いじめっ子に対して興味を示し、当然のことながら拒絶されたり、人格否定されたり、興味を示したことを理由にさらなるいじめを受けた。

もともと興味の示し方がぶしつけだったりということもあるだろうけど、やはり私は使う相手を間違えていたし、そこで返ってきた反応を重くとり過ぎた。

「人に興味を示すのはいけないこと」

そんな風に自分の中にルールを作り上げてしまった。

今でも縛られていることを感じる。人と関わっていて、ふと聞いてみたいことが浮かんでも、「これは聞いていいことか?踏み込み過ぎじゃないか?失礼じゃないか?嫌がられないか?だいたいどう聞けばいいんだ?・・・」と葛藤しているうちにタイミングは過ぎていく。

そして、別の時に、私が思っていたことを他の誰かがためらいなくストレートに聞いて答を得たりしている場面に出くわすと、「聞いていいことだったんだ!そんなに単刀直入に聞いていいものなんだ!」とびっくりするということを繰り返している。

ただ少し以前より進歩していることは、以前なら「この人たちはそれが許される仲だから。私には許されていない」と、いつまでも踏み込めないでいたところを、そのうち私もそういう仲になれるだろうとか、そろそろ聞けそうな関係になれただろうとか、思うようになってきて、相手によっては実際に聞いてみることもできるようになってきたこと。

最近はさらに、以前ならそんなに仲良くないと判断していた相手にも、興味を示せるようになってきている。興味を示すことが、好意を持っている表れでもあるって思えるようになってきたから。それから、好意を受ける側だけでなくて、好意を発する側になってもいいことがわかってきたから。特に今よく付き合いのある主婦層は、人から好意を向けられることに飢えている人が多いようにも思う。私と同じように。

好意を出して、受け入れてくれる人にだけ受け入れてもらえばいい。相手が受け入れられないような状態だったり、受け入れることを拒絶しているような人なら、それは一歩引いておけばいい。

たぶん、すごく当たり前のことなんだろうと思うけど、こういうことがやっとわかってきた。

今はまだ考えて考えてそれから実行、と時間がかかっているけど、実践していれば自然にできるくらいに身に付くだろうと思っている。やっと立てるようになった赤ん坊が、そのうち自然に移動手段として歩くようになるみたいに。



もう一つは、私自身が人に興味を持てないほどいっぱいいっぱいなときのこと。

何かしなければいけないことがあって頭が一杯だったり、考え事をしていたり、集中して何かに取り組んでいるとき、時間がなくて焦っているときなんか、まったく周りの人のことを考えていない瞬間がある。

これって誰にでもあることだと思うけど、まるっきり無視になっているのは、やっぱりモラ的な行動だなと思う。

1人で没頭していてそれで構わない時はいいけど、相手が私に意識を向けて欲しいと思っている時なら、まったく無視はやっぱりまずい。興味がない、あんたなんかいなくていい、というシグナルになってしまう。

でもこちらが大変なのは確かなんだから、こういうときは全部を相手に向けることはなくて、少しだけ意識を分ければいいんだよね。ただ少し話を聞いて、自分の状況を説明して、意識を向けることができないことを詫びる。それでいいはず。そしてちゃんと後でもう一度時間を取ればいいんだよね。これは拒絶じゃないんだ。

これは特に子供に対してうまくできてないところがあって、かなり訓練がいるなと思っている。ただ子供って、まだ我慢が出来ないから、「ちょっと待って」と言っても「何分だけ待って」と言っても待てないし、本当に忙しい時に何度も何度も来られると「いいかげんにして〜!」ってなっちゃうのは仕方ない気もするけど・・・。



なんにしろ、もう少し自分にゆとりを持ちたいな、と思う。そうしたら、そのゆとりの部分で人に興味も持てそうだし、興味がないわけじゃないことを示していけるんじゃないかな。
posted by 蝉ころん at 09:40| Comment(3) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月24日

逃避人生

私は感情移入が激しいと前に書いたことがあります。

それが、感情移入どころではなかったんだと、先日気が付きました。

よく、映画なんかを見た後、なりきっている人がいますよね。私はそういうのがもっと酷いのです。漫画でも、小説でも、テレビでも、すぐその人物像の考え方などを映してしまいます。最近は「あ、また連れてきちゃった」って気付く感じです。

これも、小さいころの影響でした。



小学生の頃、私の横には常に友達がいました。私が作り上げた、架空の存在の友達です。

本物の友達はほとんどおらず、クラスの子たちに「バイキン」扱いされていた私にとって、唯一気を許して話の出来る存在は、その架空の友達だけでした。

私はずっとその透明の友達と、音を立てずに会話し、遊び、悩みを相談していました。

辛いいじめ体験があっても、仲の良い友達がいなくても、家に帰ってひとりぼっちでも、なんとか学校に行き、日々をやりすごしていけたのは、彼(そういえばいつも男の子でした)のおかげでした。彼は私にとって、ヒーローで、親友で、かけがえのない存在でした。

こんなふうに空想の友達と関わっているうちに、いつしか私とって、空想世界にいる時間の方が現実世界にいる時間より長くなっていきました。

空想の友達を持たなくなった中学以降は、自分自身では成長したつもりでいて、実はもっと重症化していました。架空の存在が1人だけだった小学生時代に対して、中学生のころからは、架空の世界を作り上げるようになっていました。

漫画や小説の影響もあったと思います。だんだんと、空想世界は現実世界からはなれていき、空想世界に入り込んだ私は空想世界の住人として生活するようになっていきました。現実は私にとって蜃気楼のようなものでした。

現実世界へは、空想世界で得た私の人物像を連れて行き、私とは違う、一匹狼で生きていける、強いキャラクターとして作り上げられた別の人格になりきって過ごしていました。

この習慣は、いじめから逃れたはずの高校以降でも続きました。気付くまで。そう、つい最近までです。今でもあります。



私は、私の人生をほとんど自分で生きていなかったんです。

私が決断したつもりになっていたことは、私が作り上げたキャラクターが決断したことでした。

私は私の人生を私のフリをした人物に委ねて、私自身はずっと空想の世界に逃げ込んで、自己満足のカッコいい人生を過ごしていました。

これを逃避と言わずしてなんというのか。私はずっと現実から逃げ回って生きてきたんです。

どうりで現実的な能力が低いわけです。心ここにあらず、が常でした。

空想癖があることは自分でも理解していたんです。それが現実から逃げていることだって、うすうすは感じていたのに、深く追求しようとしませんでした。このことに気付いたとき、かなりキツかったです。でもすごく納得しました。色々なことに。気付けてよかったです。本当に。



子供の頃、この空想力を身に付けたのは、自分を守るために必要だからでした。偉かったなあと思います。おかげで私はここまで生き延びたし、それなりに生活してこれました。

ありがとうね。ずっと私を守ってくれて。

でももういいよね。もうこんなことしなくていいよね。

私は私の人生を、私として生きていいよね。

私は現実を取り戻そうと思います。ときどき、空想世界が懐かしくなっちゃうこともあるだろうけど、でも、自分の力だけでもう生きていけるから。架空の誰かに決断を任せて、自分の気持ちがわからなくなるはもう嫌だから。しっかり実感を持って生きていきたいから。

ひとつ大きな山を越えた気がします。
posted by 蝉ころん at 19:04| Comment(3) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月11日

認めて欲しい気持ち

もう金曜日。連休の後の平日はあっというまに終わってしまいます・・・。

一応体調はそれなりに戻ったので、来週からはもうちょっと元気で過ごせるかな、と思ってます。

夫と結婚してから、平日は仕事でくたくたになって早く休みならないかなと思い、休日は夫と過ごすことで疲労して早く平日にならないかなと思う・・・ずっとそんな生活でした。

どちらの環境でも、無理ばかりしていました。無理できるからこそ認められると思っていたし、無理をしていることがアイデンティティにさえなっていたんです。

今でもきっと、仕事でも何でも、何かを始めたら、我を忘れて打ち込んで、誰にも止められなければ体力の続く限り限界まではまり込んでしまうだろうということが予想できます。対象は、私が好きなことでなくてもいいんです。

ただ、限界まで無理をすることが私への評価につながる、そのために、評価を貰いたいという欲求のために、無理を進んでしてしまう癖があるんです。

むしろ、好きなことより嫌いなことの方がいいくらいなんです。好きなことにのめり込んでいても誰も認めてくれないけど、嫌いなことを頑張ると、結果以上の評価が貰えることを、よく知っているので。

この欲求が底にある限り、なにをやっても無理をしてしまう、限界までいってしまう、それを先日のイベントで思い知りました。

そこまで無理をしなくても、私は私のままで、そのままで、認められる存在だってことを私自身がしっかり納得できたら・・・そうしたら、無理をせず、好きなことに自然に向かっていけるようになれるかしら。そんなふうになれたらいいな。



私は今、自分の好きなことがよくわからなくなっています。今まで自分が好きだと信じていたことの全てが、ただ人から評価されるために選んできたものばかりでしたから。

きっと中には本当に好きなものも混ざっているんだと思うんです。

でもそれを見つけるにはまだ時間がかかりそうです。
posted by 蝉ころん at 13:05| Comment(2) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月23日

限界までいっちゃう体質

この週末、イベントがあって私も参加したんですが、また少し私の問題点にぶつかりました。

団体で参加するものだったんですが、私の担当している部分の代わりのメンバーがいなくて、1人で担うことになったんです。それでも、他の人でもまったくできないことではなかったし、楽しく参加するのが基本のイベントなのにも関わらず、私は1人で背負い込み過ぎてしまいました。

体力的、精神的に限界が来て、途中で泣きたくなってしまい(まだうつからも脱しきれてない証拠でしょうか?)、へたばってしまいました。結果として、みんなに迷惑をかけて、心配をかけることに・・・。申し訳なかったです。

大勢が関わるようなものに参加するとき、周りのこと、自分に求められていることばかり考えてしまって、自分の能力の限界を考慮しないところがあります。

ちょっとこの辺、体育会系出身でそういう思考回路が身に付いた面があるとは思うんですけど、能力もないのにそこまでされても周りには迷惑ですよねえ。というか、引きますよね。(^^;



で、「能力のない私」が情けない、と自分を責めそうになって、気付きました。違いますよね。実は能力がない、っていうことを自分で知ろうとせずに、自分の力を過信してなかったか?ということ。限界が来る前に、自分からメッセージを出していれば、へたばるところまで行かずに助けてもらうこともできたのに。

自分の限界を自分で設定できてなくて、他人に委ねてしまっていた(大丈夫?休憩する?なんてセリフを無意識に期待していた)んだなあと思いました。

そして、子供を産む前の私なら、ここで「能力のない私」を責めることから逃れるために、他人を批判していたと思います。なんで気付いてくれなかった、ここまでなるまでに止めてくれたらいいのに、なんて。違いますよね。「辛い」ということは自分で感じることができていたんだから、その時点で回りに伝えていれば良かっただけ。それをせずに抱え込んでいたのは私だし、私が辛いことに対して、改善を図るのは私自身の役目でした。



こういうことを、1人ぽつんと休憩しながら考えました。

「つらいから休みたい」って一言、それだけでよかったんだね。「もう無理」って言ってよかったんだよね。能力は人それぞれなんだから。

それで「まだいけるよ」「もうちょっと頑張りなよ」なんて言ってこちらの限界を理解してくれない相手なら、伝える相手を変えるなり、改善方法を提案するなりもできるし、それでも誰もわかってくれないなら、やっていけないからって抜けてもいい。

人に助けを求めたり、自己主張するのがやっぱり苦手なんだなあって、気付いた週末でした。前向きに捉えることができたものの、今の生活にシンクロし過ぎて、ちょっとどよ〜んとしてます・・・。

でもただでは転んでないですね。気付きがあったし。(^^;

それと、いっぱい心配させて申し訳ない、って思いが強かったけど、いっぱい心配してもらってありがたい・・・そんなふうにも少し思えて。それが嬉しかったです。
posted by 蝉ころん at 10:06| Comment(4) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月19日

母の気持ち

私は子供をかわいがるのが苦手です。そんな自分を、なんかキャラじゃない、こっぱずかしいなんて言って逃げていました。

私はそういう人間で、そういう感覚がよくわからないんだから仕方ないって思ってました。私自身もそんなふうに育てられたんだし、別にそれでもいいじゃないって。

昨日の記事にもらった小麦さんからのコメントがヒントになって、母が本当は心の底に私たちをかわいがりたいという気持ちをもっていたんだということが理解できて、なんだか自分の気持ちにも変化がありました。

かわいがっていいんだ、って、そう思えました。かわいがりたいって。

しばらくはそう素直に出せないだろうけど、かわいいって、思っていいんだなって。

私にもこの気持ちがあったんだって思いました。



母はずっと、私たち兄妹には厳しく、他人の子供にはものすごく優しかったけど。それは全く外面でなく、本当に心から優しくて、本当の子供の私はいつも強烈な嫉妬を感じていたけど。これは私たちに向くはずだった優しさでした。母が自分の中に持っている「母親像」に縛られて、素直に正直に私たちに向けることができなかったらしいです。

ばかだなあ。向けたらいいのに。子供も望んでるのにね。おおばかものです。お母さんだって、2人しか子供を育てたことのないただの不器用な母親だったんですね。なんだか、完璧な母親なんだって思ってましたけど。

やっと母を許せそうな、そんな感じです。少なくともこの件に関しては。

嬉しいです。嬉しくていっぱい泣いちゃいました。でもほんと嬉しい。(^^
posted by 蝉ころん at 09:56| Comment(2) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月18日

同感と共感

私は、わかり合える人を探していたつもりだった。

それで、考え方の同じような、夫を選んだ。微妙にズレている部分はあるけれど、そのうちきっと同じようになっていく、と思って。

そうじゃなかった。

考え方なんて違っていてもわかりあえることを、私は知らなかった。

問題は意見が合うことじゃなくて、お互いの違う意見を受け入れ合うことができるかどうかだった。

私は受け入れられる経験が少なかったから、話が合ったことを受け入れられたことだと勘違いしてしまった。

何かが違う気はしていたけれど、何が違うのかわからなかった。



ここでコメントをもらったり、カウンセリングに行ったりして、共感と言うことを考えるようになって、わかってきた。

私が欲しかったのは、共感という名前のもの。私が掴んでしまったのは、ただの同感。

同じ経験をしたことがある、それだけの人だった。

確かに、同じ経験をした人にはわかり合える人が多いけど、同じ経験を持っていて、同じような考え方を身に付けている分、考え方が違う面を理解しようとする気持ちがあるかないか、そんなところがわかりにくいのかもしれない。

夫は私を分析しているのも確か。でもそれは、私を理解して受け入れるためでなく、間違った部分を更生するため。もっというなら、支配するのに利用できる部分を探るため。

夫は常に同感が欲しいのだ。私が、夫と全く同じ考え方になって、全く同じ心の働きをして、夫が思ったように行動する人間になって欲しいのだ。

それは間違っても共感ではない。

私が欲しいのは共感だった。

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今回、思っているままを書き出したので文調が「ですます」になっていません。書いちゃってから気付きました。まあいっか。(^^;
posted by 蝉ころん at 10:56| Comment(2) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月29日

鏡としての夫

お久しぶりです。

3月に入ってからの寒気で、子供たちが調子を崩したのからはじまって、私にも移ったり子供が別の病気をもらってきたり・・・で、2週間ほど看病ウィークになってしまいました。

今は、子供たちの体調もだいぶ戻って、やっと通常生活が復活したかんじです。

おつかれさま、私。頑張った、子供たち。そして変に自己主張せず、かき回さないでいてくれた夫、それだけでかなり助かった。一触即発ぎみな場面はあったけれどもお互いよく堪えた。

では今日の記事を。


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以前にも書きましたが、私と夫はよく似ています。

趣味から、ものの考え方にも、かなり似た点があります。生育環境から来るものだろうと今では思っています。

これだけ似ていると、夫の目につく悪い面も、やっぱり私も持っている、ということが多々あります。ここで夫のことを分析しながら、いつも平行して考えているのは私のことです。

夫婦間の間のことに限って言えば、私が夫にされて嫌なことを私が夫にしている場合、私がしている行動と、夫の行為とは別のものだと思っています。

私からの行為には、夫がこうするなら、私もそうしていいんだろう、という、「郷に入りては豪に従え」的な、悪気なくするパターンもあれば、報復や見せしめ、という形で、夫に自分の行為を理解してもらいたいという気持ちが入っている、良くないことと知りながらの時があります。どちらにしても、私は「意識して」やっているということです。

これに対して、夫は「無意識に」こうした行動をとっています。ここが決定的に違うところです。

だから、この点に関して、似ているけれどもやっぱり違う、と思うようになっていました。

でも最近、夫の行為を、この辺りから夫の問題を押し付けられているな・・・とか、あ、またなにか自分で解決できないものが溜まってきているな・・・そろそろぶつけられるな・・・とか、分析できるようになってきて、私の問題とかぶっている、ということに気付いてきました。

いや、本当はとっくに気付いていたのかもしれません。自分で認めたくなかっただけで。

私は、子供たちに夫と同じようなことをしているのです。

つまり、夫と私が支配被支配の関係で、私も、私と子供を支配被支配の関係にしている、ということです。

夫婦関係だけを見ていたら見えなかった私と夫の類似点は、子供まで含めたところでやっと見えてきました。

私は、子供との関係でうまくいかないとき、私自身の問題を子供にぶつけてしまっているんだと思います。でも、自分のことだと、渦中に入ってしまっている時はなかなか見えてこないし、切り抜けたあとに振り返る、ということもあまりできません。

それが、夫の問題を分析するようになって、自分の問題も同じように分析することができるようになってきたんです。これは予想していなかった効果でした。



夫の問題を突き詰めていくと、私自身の問題に突き当たります。夫は、私の鏡なのです。

もう少し、夫を手放さないでいるのも私のためになる面もありそうだ・・・なんて考えたりもするこのごろです。

また傷つけられることが増えればそう悠長なことも言ってられなくなるでしょうけど。
posted by 蝉ころん at 14:18| Comment(4) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月02日

議論好きは私

虫食い枯葉さんのブログで、旦那さんに惹かれている部分がある、満たされている面もある、という話(ずれて捉えていたらすみません)があったので、私にも似たような面があると思い、考えました。



以前にも、夫といると子供にかえって本気で遊べるから、ということを書いたことがあります。

今回考えていて、もう一つ、私が夫といて楽しかったことに、議論があるということに気付きました。

私の実家では、日常的に家業のことについて議論をしていて、私はそれに入ることができなかったので、議論に加わること=構成員として認められること、のような認識があったかもしれません。

でも、実家での議論はと言えば、話し合いと言えるようなものではなく、ただ各々が自分の考えを声高に主張するだけの、意見の押し付け合いでしかありませんでした。母はできるだけ穏便にまとめようとはしていましたが、それでもやはり、父の偏った考えは受け入れるわけにいかず、どうしても議論になってしまうのでした。

自然、私がしたかった議論はそういうものでした。

社会に出てみると、話し合いにも会話にも、こういった議論は出てきません。それが当たり前です。私はその会話の在り方に合わせつつも、本当の会話をしていないような物足りなさを感じてもいました。自分の考えを目一杯主張してみたい、言いたいことを言いたいだけ言ってみたい。そんな感情があったのだと思います。

それが出来たのが、夫でした。

モラハラ加害者の特徴として、議論好き、があるといいます。相手との意見の擦り合わせをしたいわけでなく、子供の屁理屈の延長のようなもので自分の考えが正しいことを相手に納得させるため、という議論だろうと思います。

私は、ときどき夫との間で発生する、この実家での議論と同じような性格の議論が大好きでした。夫が自分の考えを言う、私はそれを聞き、それなりに考えを受け止めた上で、また私からも考えを言う。私は結論なんて出なくてよかった。ただ意見をぶつけ合うのが楽しかったんです。本音と本音で話が出来る、これができるからこそ家族なんだと思っていました。

そのときは、話し合ってそれぞれの考え方がわかれば、お互いの理解にもつながると思っていましたが、そんなことは付け足しの理由に過ぎなかったんです。私はただ議論できることが嬉しかった。それがやっとわかりました。



夫の方にもそういう面があったように思います。

夫の実家でも、ちょくちょく何か言い合い(端から見ると言い合いにしか見えないものですね)をしていましたし、以前はたいてい言いくるめられるのは夫だったようです。そして、いつか上の兄弟を言い負かしたいと思いつつ成長したようです。

夫もまた、対等に理屈を張れる私との議論に熱中していました。私は夫を納得させたいわけでなく、ただ議論が続くのが楽しかったし、言い負かしたい欲求の強い夫は、持論を変えようとしない私を屈服させようとするので、なかなか議論は終わらず、いつも時間切れで終了、といった感じでした。私は議論が出来たこと、それだけで満足できましたが、夫の方は言い負かせない不満が少しずつ溜まっていたのかもしれません。

夫は議論が好きなのではなく、言い負かして勝つために議論という手段をとっているだけ。本当の議論好きは私の方でした。

そしてこれが、私たち夫婦の唯一といっていい精神的なコミュニケーションで、パワーバランスを保つ意味でも夫婦の存続に大きな影響を与えていたものだったような気がしています。

子供が産まれて、子供の相手をしつつ論理展開をすることに無理が出てきたので、私は議論に乗ることがなくなりました。そして、議論に乗らなくなった私に「勝った」と認識した夫は私を支配しだし、私にとっては議論の出来ない状態で夫と過ごす意味がますますなくなりました。このあたりの話は以前にも書いたので余談として。



今、私は、こういう議論、相手に自分の意見を押し付けるための議論は、正当な話し合いでないことを知りました。でも、頭に染み付いているパターンがなかなか抜けないようで、無自覚に人を議論に巻き込んでしまうことがあります。

こういうときは、攻撃的です。言い負かし合い、というゲームに入り込んでいるからです。私の中では、ゲームのルールに則っての攻撃的なプレー、というようなものなんですが、ゲームの外でやってしまっては直接攻撃と受け止められるのは当たり前です。

柔道のルールは試合の上では公平ですが、普通の生活の中で人につかみかかってはいけないのです。

私はこの癖を持て余しています。なるべく表現を考えて、同じことでも柔らかく受け取られるようにしようとか、普通に意見を伝える程度に留めるように心掛けていますが、勢いのある時は攻撃性が前面に出てしまいます。

ここでこうして長々と自分の考えを書き連ねているのも、この議論好きの傾向からきているもののように思います。ただひたすら、私の考えが伝わることだけのために。しつこくしつこく書いてしまうのは、自分の気持ちを書き留めたいだけじゃない、「私の意見をわからせたい、このことについて意見を戦わせたい」という欲求から来ている気がしてなりません。

このブログではそういう面も現状の自分として出してしまえ、と思っているので、意図して書いているときもありますが、今週は、よそ様のブログのコメント欄でやってしまいました。(なつ草さん、本当しつこいですがごめんなさいm(_ _;)m)

まだまだ未熟な私を再認識しました。この未熟な私を認めつつ、少しでも前に進めるか、と思っています。議論への欲求をどう消化していったらいいのか、悩んでいます。
posted by 蝉ころん at 21:07| Comment(7) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月28日

久しぶりのチャイルド

最近、私自身に攻撃性が出てきています。

今になって身に付いたものでなく、前から持っていたものが戻ってきたんです。懐かしい感覚でもあるので。また消化しないといけないことが湧いてきました。久しぶりに子供の私が顔を出してきたみたい。

最近、夫のことで心の整理がついたと思っていたら、子供たちに対して当たりがキツくなってきました。落ち着いてきたはずなのになんで?って感じでしたけど、子供の私が原因だったみたいです。

未消化の怒りがまた出てきたようです。

私の怒りの根っこは、魔の3歳児あたりにあるのかもしれません。上の子に対してキツくなってしまったのもこのころ。今は下の子が差しかかっています。子供の自己主張をうまく受け止められないのは、私がうまく受け止めてもらっていなかったからかもしれない。

私もきっと自己主張いっぱいしたかったんだなあって思います。

母は父と兄の自己主張で手一杯でした。私が泣いたら、兄が叱られるだけで私の話は聞いてもらえませんでした。私が泣かなければそれでよかったのかな。私が覚えている小さいころの母は、ほとんど後ろ姿です。後ろ姿に話しかけて、後ろ姿のまま返事をされていた。目止めを会わせて会話した記憶がないんです。私は家族の生活のついでに成長していました。

いつか余裕ができて、私に目を向けてくれる時が来るのをずっと待ってたのに。そんな時は来ないまま、私は大人になって、母は私を頼るようになっていました。私が甘えることができないまま、甘えられるようになっていました。

子供の私は、今の、本物の私に嫉妬しています。私だってそんなふうにやさしくして欲しかった、目を合わせて会話して欲しかった。一緒に遊んで欲しかった。私はずっと我慢していたのに、手に入らないものだと思っていたのに、この子たちだけずるい!って。私だって、私だって、って言ってる。

私のチャイルドはかなり私の意識の浅いところにいて、ときどき表面に出てくることがあるみたいです。こういうとき、私はモラ化しているかもしれません・・・。子供に対してキツく当たってしまうとき、たぶん、同じ年頃の子供に戻ってしまっている気がします。私はちゃんと出来てたのに、あんたちもやりなよ!って。

私はきっと無理して頑張って能力以上のことをしてたんだ。まだそんな能力がない頃に、自分のことに責任を負って生活していたんだ。誰にも頑張っていることを気付いてもらえないまま、出来るんだから、やって当たり前と言われて。出来るくせにやらないと言われて。それなのに、まわりでは頑張っていない子が褒められている。なんで?なんで?私が頑張ってないって言うなら、あの子なんか全然頑張ってないじゃない!

平等に扱われていない、公平に見てもらえていない、私だけ損してる。そんな不満がずっと残っています。

出来なくてよかったんだよ。まだ完璧になんて出来なくて、それでよかったんだよ。もっと年相応に褒めて欲しかったよねえ。無理して頑張って、偉かったよね。



最近あまりにも調子が良くなってきていたので、子供の私のことを意識しなくなってきてました。だいぶ癒しも終わったのかな?って思ってました。でも、今日書いてみたら涙が出る出る。久しぶりに泣きました。まだまだ癒せてないことが隠れてそうだし、癒したつもりになってることも、また同じことで暴れだすこともありそうです。

自分のことも、まだ先は長いな、と思いました。こっちも忘れないようにしないと。
posted by 蝉ころん at 12:21| Comment(2) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月09日

家事について

私は家事が嫌いです。掃除が嫌いで、炊事が嫌いで、洗濯が嫌い。

掃除をした日、どうも私は機嫌が悪いなあと、思います。子供が散らかすのを大目に見れなくなるんです。これは私が無理をして掃除をしてるからでしょうか。

掃除をしても、大丈夫な日もあります。そういう日は、適当に掃除した日。ところどころ掃除機をかけてないところがあったりする。掃除機もきちんと片付けてなくて、出しっぱなしだったりする。だからこそ、パン屑を落とされても許せるし、ハサミで遊んで紙くずがたくさんになっていてもわりと平気。

「せっかく○○したのに」と思うほど家事をしちゃいけないんですね。

食事も、食べてくれなかったりおいしくないとか言われて「せっかく時間をかけてつくったのに」「せっかく喜ぶと思ったのに」なんて思っちゃって笑えないくらいなら、適当にして笑っていられるほうがいい。どれだけ栄養のバランスを考えたって食べてくれなきゃ一緒なんだし。

洗濯だって、漂白までして真っ白にして汚されて怒るより、多少色が残ってたって洗ったからきれい、それでいい。ちょっとくらいシワがあったって、アイロンかけなくてもきれいだから十分。もちろんTPOはありますが。これは、今実践できています。洗濯だけはそれなりにできているのはこのおかげ?

どうも私の場合、家事をして得られる自己満足より、それを維持管理できないことで感じるストレスのほうが大きいらしいです。完璧主義のせい・・・かな?

だったら、維持管理するレベルを落とすのが先決でしょうか。子供がいても、夫がいても、維持できるレベルに落とす。とにかく力みすぎないように。

その辺りのさじ加減は、自分でできます。私はそれをできるだけの力はあります。たぶん。

夫はその辺が理解できなくて、夫の理想を押し付けてくるし、夫の尺度で評価してくるけど、それこそどうでもいい。

私の尺度で嫌なら、自分でやれと。そしてその維持管理に私は関わらない。私はあくまで私のできるレベルで。私の決めたやり方で。夫の尺度に左右されなくていい。

これを私の方針として、やってみようと思います。気負わず、気楽に、気長に。
posted by 蝉ころん at 15:00| Comment(5) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月08日

私のうつ症状について考えた

私は、自分がうつ状態になっているということをなかなか受け入れられませんでした。

その理由は、大きく二つありました。

一つは、私が、物心ついたころから馴染みのある精神状態だったから。これがうつだというなら、私はずっとうつだった。私の半生がほとんど病気だったということか・・・という気持ち。

もう一つは、私自身が、うつになりやすいと言われる「まじめで責任感の強い性格」だとは思えないから。

今週、こんな本を読みました。

「うつ病を体験した精神科医の処方せん」

夫が私に対して「うつが治ったら今度こそ完璧な妻に仕立ててやる」という野望を抱いているらしいことに、私はずっと「熱が下がったからって薄着で吹雪の中に放り出したらまた風邪ひくに決まってんだろ(乱暴な表現で済みません、素の私です(^^;;)」と思っていました。

そういうことが、しっかり書いてあって、すごくほっとしました。うつにならない、手抜きした生活を推奨されています。

それで、もう一度私の生活について考えてみました。

私はたぶん、小さいころからうつ的なものがあったんだろうと思います。それで、私なりにそういう状態になったときに手を抜いて生活することを早くから身に付けていたんです。きっと。

だから、ストレスでいっぱいいっぱいになった時、最優先すべき子供の心の安全を確保して、それ以外は極力手を抜こうという決断ができたんです。たぶん、それで対処できるはずだった。なんとかなりつつあったはず。

ただ、自分ではそれが自分の精神と、子供を守るために最善の道だという、確たる自信がなかったんです。あまりにも自然に身に付いた対処法なので、理論武装なんてしてるわけもありません。そこへ何もわからない夫から「ダメ母」の烙印を押されたことで、自分でもわけが分からなくなっちゃったんだなあと思います。

自分はどうやら半袖だと風邪をひきやすいようだから寒い時に長袖を着ている。それなのに、長袖を来ているのは軟弱だ、脱げ、といって脱がされるようなものでしょうか。

それで風邪をひいたとしても、脱がした方は謝るでしょうか?たぶん、やっぱり軟弱だ、普段鍛えてないからだ、と言うでしょう。

長袖を着る理由は、寒いから。どちらかと言うと保守的なものです。でもそれが普通ですよね。一方、半袖を着るほうは、寒さに負けない強い体を作るため、とか、寒くなんかないから、元気だから、とか、すごく前向きな、好意的に受け取られやすい理由があります。

半袖を来て元気に過ごすのは確かにいいことかもしれません。でも、それを押し進めるあまり、長袖を選ぶことを悪いことにしてしまうのはどうでしょう。

どっちでもいいことですよね。

家事についても、長袖半袖と同じように、怠慢、理想の極論があるように思います。

風邪の原因が寒さとすると、私のうつ症状の直接の原因は、やっぱり家事、育児の負担にあるんだと思うんです。ただ、その負担を軽減しようとする私の行動を夫が見張っているということが、私にとって一番困ることなんです。長袖を脱がせようとする人間です。

私は自分で長袖を選ぶ権利があるはずです。たとえ半袖がいいことだとしても、私がそれで風邪をひくなら、長袖を着ていていいはずなんです。体を強くするのに半袖がいいとしても、体を強くしようと思うかどうかは私の自由なはずなんです。そしてそれを実行する時期だって私が決めていい。

夫が長袖の私に不満なら、脱がせようとするんじゃなくて、半袖の相手を探せばいいんですよね。

私も、私に半袖を着させようとする夫が嫌なら、離れていいんですよね。



ん〜、なんか話がずれちゃいました。風邪の例えを出したのがよくなかったかしら。(^^;
posted by 蝉ころん at 12:22| Comment(6) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月01日

仲間入り欲求と仲間はずれ不安のもたらしたもの

まだまだ「仲間」というものにこだわっています。(^^;

私のかなりの行動原理がここから出たものらしいので。


・数人人が集まると、自然にキーマンを探している

 この人に嫌われたらいられないという不安がある。
 この人に気に入られれば安泰という安心を得るため。

・能力を認めてもらえないことに不満を感じる

 認めてもらえない=追い出される、という不安。
 認めてもらう=仲間でいていい、という許可になってしまっている。

・能力を認めてもらうために必要以上に自己主張してしまう

 主張しているのに見てもらえないことで不安がエスカレートする傾向がある。
 主張が過剰になってしまうと、和を乱す存在になって、結局いづらくなる。

・1人でいる人を見過ごせない

 自分だけが仲間に入れればそれで良い、という嫌われる行動をとりたくないだけ。
 仲間に引き入れた相手に自分の立場を奪われたりして、不快に思ったりする。

・人を嫌えない

 その場にいたいがために、嫌なことをされていても相手を嫌えず、理解しようとしてしまう。
 理解してしまうと嫌えない、離れられない、の悪循環。

・自分を出せない

 ある程度メンバーとして認められると、守りに入ってしまい、自分が出せなくなる。
 まわりの話題に無理についていこうとして、知ったかぶりをすることがある。

・私を排除しようとする人間を嗅ぎ分けてしまう

 相手がさりげなく私を外そうとしていることを感じ取って敵対心をもつ。
 その人のまわりにいる人たちまで信じられなくなる。

・キーマンのいない集団に不安を感じる

 自分の立ち位置がわからなくなる。
 集団に入れていない感じがする。

・自分のしたいことがわからない

 仲間に入るためにしていることであって、したいから仲間になったんじゃない。
 得意なこと、好きなこと、は、ある。でも、本当にしたいことは?わからない。
 これは、今の課題。




今のところ思いつく問題点は、こんなところでしょうか。

どれも、意識して、「不安を感じなくてもいい」と認識できるようになれば、解決していけそう。夫から評価されるのが嫌なのも、「夫がキーマン」と無意識に認識している自分がいるからだと思います。「キーマン依存症」かしら。



それでどうも、私は「キーマンの腹心」を狙っている人物に目をつけられやすいらしいというのも、最近やっとわかったこと。私とはちょっと違う理由が働いているようですけど、キーマンに気に入られたい人はたいがい他にもいて、そういう人には私が邪魔になるようです。まあそうでしょうねえ。同じところを狙ってるようなもんですから。私は別に「腹心」にこだわってるわけじゃないけど、そう見えるでしょう。

他の人と離している時にさりげなく間に割り込んでくるとか、輪になって話している時に、微妙に形を崩して私だけ外れるようにするとか、こちらが話している最中に他のことをしだして無視するとかいう嫌がらせを、今でもされることがあります。

あまりにも自然にするので周りの人からはまったくわからないんですよね〜。故意だと気付いてからはうまいことやるな〜と感心するくらい。これもモラハラの一形態ですね。

私はこういう人に嫌われていて、嫌いなものだから排除されようとしてるんだなと。

私は、集団に属することが大切で、でも嫌いな人と一緒にいるのは不快。だったら、嫌いな人を嫌いでないことにするために相手を理解しようと努力する。そういう方法をとります。

でも、私に嫌がらせをする人たちは、同じように集団に属することが大切なようだけど、嫌いな人と一緒にいるのが不快だから、集団から出してしまう方法をとっているわけですね。それも、「邪魔だから出て行って」と言うわけにいかないことはわかっているから、相手を居心地悪くして自分から出て行くように仕向けるという・・・。あ〜ヤダこういうの。

私はこういう人たちが嫌いです。嫌いでいいんだと思う。で、こういう人は、集団に必ず1人くらいはいます。

だから、たいがい私は目の敵にされて、はじっこで集団にしがみついているのか、出て行くのかという選択を迫られちゃうわけです。

私は集団が大事なんだろうか。それとも集団の活動が大事なんだろうか。

集団が大事なら、自己主張せずになんとなくそこにいれば、たぶん目をつけられることもないでしょう。なんとなく集団にいればそれでいいじゃない。でも・・・これは私は嫌。

じゃあ、集団の活動が大事なんだったら、もっと自分を出して目をつけてくるような人に負けないくらいになればいいんじゃないかしら。むしろとりまきにしてあげるわよ、くらいの勢いで。それか、出て行って自分だけで活動すればいい。

別にキーマンにランク付けしてもらわなくていいじゃん。私は私で、それだけでいいんじゃないの?

それにはやっぱり、自分のやりたいことと、そのことへの情熱、みたいなものがあるかどうか。なのかなあ。

まだそこまでは・・・ちょっとハードル高いなあ。(^^;
posted by 蝉ころん at 11:28| Comment(4) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月31日

揺らがないもの

夫と暮らす中で、自尊心はボロボロになり、自己不振に喘いでいた私ですが、そのなかでも一つだけ、私に関することで揺らがずに残った自信がありました。

それは、私という個人ではなく、人間というもの、命というものに対する信頼です。

それがほとんど医者にかからないことにもつながっているんですけど、人間の体はそんなにやわじゃない、薬に制御してもらわないといけないほど、体の機構はいいかげんにはできてない、という、回復機能に対する信頼なんです。

夫との生活で心が傷ついて、体にも症状が表れたとき、「これはただごとじゃない」と思いました。いままで経験したことのない症状だったから。

そして、心にかなりのダメージを受けていることを知りました。

でも、私は、心の回復機能も信頼することができました。

私は、私の性格や行動、能力に対しては不信感満々だったけど、心そのものに対しては、信頼を失っていませんでした。

心は、肉体と同じ、私という個体の、命そのものです。

だからこそ、私個人とは切り分けて、命の機構として、私は信頼し続けることができました。そう簡単に崩れ去ってしまうはずがないと。

感情にフタをしたり、傷ついた心をインナーチャイルドとして大切にとっておいたり、辛い記憶を忘れたり。全部、心が、生きるためにとった対応で、そこまでしてなんとか生きようとしている。回復しようとしている。

それは体が病原菌に対して発熱して抵抗力を上げるようなもの。擦り傷に血が集まってきてかさぶたを作るようなもの。骨折してさえ、適切に援助してやれば、元通りではないにしろ、回復するだけの力があるのが人間の体です。心だって、大きな傷を負ったって、回復できる道はあるはず。



私がここまで命を信頼できるようになったのは、両親の影響が大きいです。病気になると、体で今風邪と闘っている、大丈夫、と、安心させてくれた。怪我をして血が出ても、ちゃんと血が守ってくれるから、と、教えてくれた。そんなことの繰り返しで、私は自分の体に対する信頼だけは、小さいころからしっかりと持っていました。

さらに、理系の学科が好きで、生物系の知識、情報に目がなかったことで、さらにその信頼は強化されていきました。

命ってすごい。

私は無宗教ですが、唯一信心しているものがあるとすれば、それは、自然、命そのものに対してかな、と、思います。



そして一方で、命のはかなさなんてのも感じることではあって、死ぬときゃ死ぬな、それは仕方ないな、みたいな見方もしたりします。なんか矛盾してる?(^^;
posted by 蝉ころん at 15:51| Comment(2) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月29日

のんき

最近、どうも私はかなりのんきな性格らしい、ということがわかってきました。

世間のペースに合わせて、大忙しで生きているうちに、なんだかすごくせっかちなような気分になってましたけど、なんてことはない、自分がせっかちであることを求められて、それに無理に合わせているから、他人にもせっかちになることを求めるようになってしまっただけらしいです。

そのせっかちの代表が、夫、および、夫の家族、です。

いやもうほんと、せっかちなんですよ、姑。

一緒に食事に行けば、全員食べ終わって、子供の残したものを私が平らげていると、さっさと席を立ちますし、一緒に観光に出かけても、景色を眺めて立ち止まることもなくずんずん歩いていきます。ツアーで旅行に行っても、「私は誰より歩くのが早くて若いって言われる、みんなが遅すぎるんだ」なんて自慢しています。みんな、おしゃべりや景色を楽しんでゆっくり歩いているだけだと思うんですけど・・・そういう価値観がわからないらしいです。

当然、夫もせっかちです。

出かけるギリギリまで用意をしないのは夫なのに、夫自身は自分が用意ができたらもう出発できないと我慢できない。人にものを頼めば、すぐに取りかからないと機嫌が悪くなる。

まあ、子供だと思えばこんなもんですが・・・。

私もこれに影響されてこんな人間になってました。本来のんきなのに、せっかちにさせられて、それなのにマイペースを守っている人間(それもせっかちを押し付けた本人!)がいたら、あんたもしろよ!と思うってもんです。

ここのところ、夫がうつ対策でなにも言わずに家事をするので、こちらも変に罪悪感を感じないように、夫のことを観察するくらいのつもりで過ごしています。

そしたら、自分のペースが見えてきたというか、そういえばこんなんだったけ・・・という感覚が戻ってきたというか・・・。

そうか、私はのんびり屋だったわ。

子供もかなりのんきです。私に似てるんだきっと。だから、子供を急かしていると子供も辛そうだし私も辛いです。

子供との関係でも、ヒントになりますね。のんきでいいじゃん。ゆっくりやったらいいじゃん。今できなくても明日もあるよ。そんなふうに言えたらいいなあ。

まあ、そういうわけにいかない約束事が多いのも今の社会ですけど・・・。



で、私が本来ののんきな私を完全に取り戻したら。マイペースで生きるようになったら。それこそ夫は耐えられるんでしょうかねえ。夫が私に夫像を押し付けてくるのは、私の問題じゃなくて夫の問題。押し付けても受け入れてくれないようになったせっかちな自分像を抱えて、我慢できないのは夫の方だと思うんだけど。

子供に向かうようになったら切り時、でいいのかなあ。それじゃ遅いのかなあ。

とにかく春から下の子が保育園に入れたら、仕事だけは探そう。それだけは絶対に。今の課題。

それだけ心に留めておけば、まあいいか、というのがのんきな私らしいペースな気がする。
posted by 蝉ころん at 12:06| Comment(2) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月08日

負けず嫌い?

夫も子供もいないので、久しぶりにお風呂でのんびりしました。

いつもはそうでもないんですけど、この休みは異様にお風呂好きになっていた私です。温泉とかでゆったりしたい・・・。たぶん、緊張してるからです。夫と過ごした、ただそれだけのことで体中が疲れてるのがわかります。ああ、いつもこんなに疲れてたんだなあ・・・のんびりしたくなって当たり前だなあ。夫とのんびりしてるつもりでもなぜか疲れが取れなかったのは、どんどん疲れがたまっていってたからなんだなあ・・・としみじみ。

さて、お湯につかってちょっとすっきりしたので、正月に考えたことを書き留めておきます。


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夫と生活していて、たびたび言われたこと。

「お前は勝ち負けにこだわりすぎる」

これ、夫の投影でもあるんですが、夫からそう思われる何かが私にも確かにあるんです。夫が上手なことを、一所懸命練習するとか、勝負ごとで、負けたらくやしそうにするとか。

でも、私自身に勝負にこだわっている意識はまったくないんです。そりゃ、ずっと負け続けだとたまには勝ちたいな、くらいは思います。でも、一度勝ったらあとは10ぺん負けてもいい。

勝つことにこだわっているわけではないんです。むしろ、勝ち続けないことを祈っているようなところがあります。バカにしていると思われるから手は抜けない、でも勝ちたくない。どうか勝ってくれ、と思いながら勝負している・・・そんな面があります。


なんだろうこれ?と、ここ2ヶ月ほど考えていたテーマでした。


この正月、またこのテーマについて考えていたとき、ふと、夫は負けず嫌いなわりに練習嫌いだよなあ・・・私は練習好きだけど・・・むしろ本番が嫌いだなあ・・・なんて考えて、ピンと来ました。

私は、同レベルでいたいんです。

小学生の頃や、兄との遊びの中で、私だけレベルが劣っていることが原因で仲間に入れてもらえない、仲間に入れてもらえても邪魔者扱いされることがしばしばありました。だから、私は、邪魔者にならないでいられるよう、同じレベルの仲間として、戦力に数えてもらえるように、勝負の相手として楽しんでもらえて、仲間として受け入れてもらえるように、自分の能力を上げることに力を注いでいたんです。

実際は、いつも私が上手になった頃には流行りの遊びが変わっていて、私の練習は実を結びませんでしたが。

そして、私は本番が嫌いです。失敗して仲間からブーイングされることを極端に怖れるからです。一度失敗したら次のチャンスはありません。

私はだから、いつでも、新しいものがやってくると、やっきになって練習するんです。人並み以上に出来るようになって、誰とでもそれなりに楽しく遊べるように。みんなの足を引っ張って雰囲気を崩さないように。無難に平和に同じ時間が過ごせるように。

夫が私の中に見る「負けず嫌い」は私にとっては「協調性」の成れの果てのものでした。



この正月に、家族で遊ぶ機会が多く、そこで子供や夫があまり練習したがらないのに私だけなぜか練習が好きで、これはひょっとしてあまり普通でないことなのかしら?という疑問が出てきて、考えた結論がこれでした。

周りの人から見たらそんなに練習してまで勝ちたい「負けず嫌い」に見えることもあるだろうなあ、って、とっても納得。

でもこれ、欠点ではないですよね。私の長所。これがあるから、私は新しい仕事でも努力して素早く身に付けることができるし、身に付けたものにしがみつかずに新しいことに次々と挑戦することができる。

この傾向を身に付けたきっかけは確かにあまりいい状況ではなかったけど、でも結果として身に付いたものは、私にとってプラスに働いていること。「負けず嫌い」なんて決めつけられて捨て去ることはない大事なものでした。

夫に欠点だと指摘されていたことは、長所でした。

きっと他にもこんなものがたくさんあるんでしょうね。「怠けてる」って評価だって、「自分で休むときを判断できる」とも言える。

私は、ちゃんと私なりに生きてきたんだなあ。偉かったなあ。・・・最近、過去の私を他人として見ることができるようになりました。切り離している、ということではなくて、今の自分とは別個の存在、という意味です。

ただ一人の、その時期、その場所で、そういう状況でいる子供として、客観的に見るんです。そうすると、もっと他に辛い思いをしている人は一杯いる、なんて評価は出てこなくなりました。この状況は、辛いよ。6才の子供が、この状況に置かれて、けなげに頑張ってるのに、誰も見ていないのは辛いよ。よく頑張ったよ。えらいよあんたは・・・。私だったら頑張れないよ。えらいよ・・・。

頑張ってくれてありがとう子供の頃の私。いつまでも辛いところで立ち止まってしまってごめんね。もう少しだから、一緒に頑張ろうね。

ああ、なんだか最初と最後がつながらない文章になりましたね。ちょっと興奮状態かもしれません。今日はこれくらいにしておきます。
posted by 蝉ころん at 18:02| Comment(2) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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