2011年09月24日

頭の中の高速トンネル

すっかり間が空きました。

相変わらずひきこもりで主婦業のみ、ひかるは不登校の生活ですが罪悪感はすっかり抜けてきて、焦りではなく欲求として、子供の状態にもあまり振り回されず、何かしたい、仕事がしたいという気持ちが見えてきています。

これが罪悪感を持ったままだったら、その罪悪感から逃れるために、「私はずっと働いてきたんだからこれくらい休む権利がある」とかになって、そこにすがりついてしまうことで、余計に罪悪感から離れられないっていう悪循環にハマるんだなーと。

「休む権利がある」は「休んでいい」とは違うし、さらに「休もう」とはもっと違う。

権利を主張しだすのは、世間的には許されないことだと思って他人に対して言い訳、
許可を与えるのは自分自身で良くないことだと感じているのを解放するためで、
意思をそのまま行動に移せるのがハードルのなくなった証拠。

状況的なハードルはもちろんあるんだけど、心理的なハードルは全部取っ払っちゃって大丈夫。
「休もう」と決めてから、状況をどうするか考えればいいだけ。

簡単なことだったんだなあと思う。

そういう思考パターンが地部の中にあったなーと。



この思考パターンてのは、自動的に入って出てくるトンネルみたいなもので、状況が起こった瞬間にトンネルに入って、行動が始まってからトンネルから抜けるようなかんじ。

トンネルの中は見えない。

周りの人も理解できないけど、本人も全く理解してない。いつのまにか感情が切り替わっていて、思考形態まで一瞬で変わる。

トンネルに入る前は車だったのに、出てみたらなぜか新幹線に乗ってたみたいな感じ。しかもそれが一瞬で起こる。

記憶が途切れているわけじゃなくて、全部出来事としては知ってるし、思い出せる。”自分の外側で起こったこと”は。

でも、トンネルに入っている間に自分がどういう経路を辿ってこの感情が湧いたのか、なぜこんな思考パターンに切り替わったのかは、記憶にはない。トンネルに入る前の感情、思考形態は他人の考え方のようで、とてもできるとも思えない。新幹線で出てきたら、車がどこにあるのかわからない。いずれ新幹線が止まったら、そこでやっと乗り換えるようなかんじだ。



蚊に刺された時、かゆいな、と思わなくても掻いてる時がある。それに似てると思う。

ある程度以上の頻度で発生する状況を経験すると、成功したやり方を無意識で使えるように学習していくんだと思う。

今私はキーボードで文章を打っているけど、これだって無意識化してる。どの指でどのキーをどういう順番で押そうなんて何も考えなくてもただ頭に文章が浮かんだだけであまり間違えずに打つことができる。

でも”同じ状況かどうか”を判断するのは私自身じゃないんだよね。

だからきっかけが何なのかはよくわからないから、このトンネルに入るときにはいつのまにか入ってしまっているし、一方通行なもんだから、出た直後に「オカシイ」と気付いて急ブレーキをかけないと原因を探れない。

出た直後なら、出口付近の様子を確かめることができる。そうすると、そこは光が当たる。そしたら少し、トンネルを短くすることができる。

そうやって、トンネルの中で何が起こっているのかを探っていって、違う出口に繋がる道を造り直していくんだと思う。

キーボードを覚えたり、自転車に乗れるようになるみたいに、ギクシャクでも何回も新しい道を通っていれば、それがまた新しいトンネルになっていくし、きれいな景色の見える出口につなげることができるはず。



てことで、思考パターンを変えようと思ったら、頭の中で出来上がっている路線を作り替えることが必要なわけだけど、頭を直接切り開いてこっち切ってこっちと繋いで、なんてことができるわけでもないので、内部から、つまりは自分の思考で切り替えポイントを見つけ出し、より良いと思われる考え方のパターンを植え付けていくしかないわけだ。

心理療法も色々あるけど、やっていることはどれもこれと同じ目的に繋がってるなあと思う。

それが、私にとってはインナーチャイルドと話をすることだったり、インナーペアレンツと対決したり、クラスメートや教師たちの声を論破したり、不要な常識をどかしたりすることだった。

私にはこれがよかったけど、脳みその中を探るのは医者やカウンセラーにはできなくて、本人にしかできないんだから、本人ができない、不審に感じる方法だと成果も上がりにくいだろうし、本人がいろいろやってみて、一番合う方法を探していくのがいいんだろうな。

しかし理解が進むほど、被害者を確保しているハラッサーがこんなことに取り組むとは思えなくなってくる。



こんなかんじで。ドクターショッピングするのもいいんでないって話に落ち着いたような。

誰でも、頭の中にブラックボックスは持ってるんだと思う。問題が起きてない時は開ける必要はないから存在を気にしてないだけで。
子供が産まれてすぐに素敵なお母さんになれちゃうような人は、ステキなブラックボックスを持ってるんだろうなあ。

ひかるとのぞむにもステキなブラックボックスができますように。

それでも今までの経験でオカシイトンネルもできていると思うから、いずれ自分たちでブラックボックスを開ける時がくるかもしれないけど、そのときは振り回されずにサポートに回れるようになっていたいな。
posted by 蝉ころん at 21:30| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月22日

褒めること

褒めるということに対して、長いこと違和感を感じていた。

「子供を褒めてあげてください。なんでもいいから、とにかくほめてあげてください」

こういうことは、育児関係の講演とか、育児書とか、いろいろなところでよく耳にしたし、目にした。

でも、褒めるべきこともないのに、何を褒めるたらいいの?変なことを褒めたら悪いことを助長してしまうんじゃない?

そんなふうに感じていた。

それから、自分の掘り起こしを始めると、褒めるということに対してさらに抵抗を感じるようになった。

私が育てられた環境での褒めることのカラクリがわかってきて、私自身もそういう用途でしか褒められないこともわかってきたから。



褒めるということは、ハラッサーの世界では条件付きの承認の意味になること。

「あなたは、私の意に沿うことができたから、このことについては認めてやる」

そんな意味でしかない。

しかも、その「意に沿うこと」の条件は、「私」の気分次第でころころと変わるもので、「私」自身でさえ結果が出るまでわからないものだ。

結果というのは、衝動的に出てくる「怒り」か「受け入れ」という形で出てくる。

こんなもののために、子供に必死に「意に沿うこと」を探して行動するよう仕向ける。

それが、ハラッサーにとっての「褒める」「叱る」ということの意味。



私はそんな風に子供を育てることから手を引こうと思っていたから、ハラッサー的にしか使用できない「褒める」ことからも手を引くことにした。

代わりに使うようにしたのが、とにかく子供の気持ちだけに注目して、今どう感じているかに注意して、ただその感情に名前をつけてあげること。

「嬉しいね」「やったね」「大満足だね」「疲れたね」

褒めない。行動に私情で評価を与えない。

のぞむは、感情を出すのが上手で、言葉でも表すのが上手いから、私も感情を返しやすい。
感情を返してやるとあっさりと満足して、また自分の世界に戻っていく。

ひかるは、感情が上手く出せず、話も、事実、行動を語るだけで、そのときのひかるの気持ちがなかなか伝わってこない。
恐怖に蓋をして嬉しそうに振る舞っていたり、のぞむや私の機嫌を伺ってにこにこしながら我慢していたり・・・。
表情豊かにはなってきたけど、作られた表情なのがわかるから、感情を返すのもなかなか難しい。



そんな感じで子供たちの行動を見ているうち、少しずつわかってきた。

褒めるっていうこと。

子供たちは、自分たちなりに、したいと思ったことをしている。

いいことと、悪いことなら、できればいいことをしたいと思っている。

いいことができたと思っているとき、褒めてあげられれば、「やっぱりこれっていいことだよね!」っていう気持ちになるのかも。

基準は子供の中にあって、その基準に対して、そうだね、って言ってあげることなんだ。

親にとって、大人にとって困ることならば、そう伝えればいいだけのこと。



基準は子供が持っている。

判断は全て子供自身がする。

子供自身の行動は、子供自身が選択して、子供自身が実行する。

子供はそれだけの力を持っていて・・・・親は、大人は、ただ、判断材料を渡すだけ。

褒めるってことは、子供の判断を尊重することなんだな。




子供を1人の人として扱うってことは、こういうことなのかも。

少しずつ実感を伴って進んでいると思う。
posted by 蝉ころん at 20:18| Comment(2) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月30日

原因は悪くない

なにかが起こったとき、私はまず、条件反射的に「えーーーっ!」となる。

私なにもしてないよ?なんでそんなことに?嫌だよ、どうにかしてよ!

これで、頭がいっぱいになってる。

この後、対処しているつもりでも、ベースがこれなので、ハラッサー的な対応になる。

ようは、

・犯人を探す(私がやったんじゃないでしょ!)
・罪を認めさせる(私が悪かったんじゃないでしょ!)
・原状回復を要求する(私は元通りでいられるべき!)

・・・な感じ。



実際に違うやり方を試していった上で、すこーしずつ、実感して来た。自分のやり方が無自覚にそんなふうになっていたことに。

何かが起こったときの対処としては、上のやり方ではいい感じには落ちつかない。

まずは、起こってしまったことを、ただ起こってしまったこととして認めるのがだいじ。上のやり方では、起こってしまったことを全く認めようとしていないなあ、そういえば。

そんで、起こってしまったことに対して、どうするかを考えるんだ。

・何が起こったのかを確認する(起こってしまったことはしょうがないや)
・困ることがあれば対処する(ベストでなくてもベターでいいよ)
・次に困らないように予防する(原因をみつけておこう)

・・・な感じ。

が、じんわり自分の中にできてきた。

まだまだ最初は「えーーーっ?」が出てくるけど、個人的な「やだやだ困る困る私のせいじゃない勘弁してー!」を表現して、一旦落ち着いてから対応するようにしてる。



で・・・・最初の

・犯人を探す(私がやったんじゃないでしょ!)
・罪を認めさせる(私が悪かったんじゃないでしょ!)
・原状回復を要求する(私は元通りでいられるべき!)

これは、私がされてきたことだなー。受け続けてきたことだなー。やはり。

何か起こったらとにかくまず容疑者は私。冤罪であっても犯人は私。
そして謝らせられて、始末をつけさせられる。私だけが原因じゃなくても。私が悪いんじゃなくても。もっと根本的な原因があったとしても!

それから、家では、ただ兄が兄だというだけで罪を背負わされているのも見ていた。

私が泣けば、兄が怒られる。明らかに私の我がままでも、私が悪かったことでも、私が泣いてしまえば、兄が怒られる。
いくら泣かないように努力しても、泣いてしまえば、兄が悪くなる。

なにか問題が発生したら、それは誰かが悪いのであり、とにかく罪人を決定して罪を償わせなければ解決はしない。

・・・なーんて回路ががっつり頭の中に定着してたらしい。



罪なんてどうでもいいのかもしれない。

被害者がいるなら、その心の傷が癒されることが大切なんだし、困ることがあればそれを回避することが大切なんだし、何回も起こることなのであれば、それを繰り返さないように工夫することが大切なんだ。

原因を見つけることは、改善するための糸口を探すこと。

犯人を見つけて裁くことが目的じゃない。

誰が悪いか、と、何が原因か、はイコールじゃない。

原因=罪、じゃない。



で・・・あと、何かおこったあとの対処をすることがとっても嫌いなんだけど、そのとき思っていることは、めんどくさい、とか、嫌だな、よりも、「私は悪くないのに・・・私のせいじゃないのに・・・なんで私ばっかり・・・私だけ・・・」とかそういう恨みが渦巻いている。

たぶん、私の中では、問題対処すること=罪を犯した人の罰、になってるんだ。

そうじゃないんだよ。

対処するのは、実は対処することができる人であれば誰でもいい。

というか、むしろ、上手な人が、原因になった人と一緒にやり方を見せてあげるのがいいんだろうなあ。その方が学べるんじゃないかなあ。

私はたいてい ちゃんと元通りにしとけ!→放置 か 邪魔だからあっちいけ!→放置 だったからなあ・・・。

どう転んでもひとり。

そのうち対処しないといけないような事態にならないようにならないようにするようになっていったなあ。そりゃ問題対処能力もつかないわけだ。



問題はおこるもの。どうあがいてもおこるもの。そう思っていた方がいいんだきっと。

だから、おこさないようにするのも大事だけど、おこったときにどうするかのほうが、きっと大切なんだよ。
posted by 蝉ころん at 12:44| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月30日

応援したい

最近は、だいぶ気持ちもいつも通りに戻ってきたみたいで、子供たちに対するイライラも戻ってきた。

それでも記事として書きたくなるのは、やっぱり原発のこと。



福島原発は、状況が見えてきたらどうも長期戦になりそうな状態みたい。

いろいろと、体制とか対応とかを非難する声が出てきてる。

私も書いたけど、こういうのって、やっぱり不安の声なんだなと思う。

今は渦中だから、不安に振り回されてしまうのは仕方ないこと。

収束したら、きちんと調査して、みんなで先のことを考えていくのが大切だなと思う。

渦中を過ぎても、忘れずに、冷静に、みんなで決めるのが大切と思う。

感情的にならずに、でも、感情を軸に、対応を決めていくのがだいじ。

今はまだ、それを始める時じゃないんだなって思ってる。



まわりでそうこう言ってる間も、原発では危険な中で作業をされていて、本当に頭が下がる。

とにかく原発事故のやっかいなことは、事故現場での作業では放射線を浴び続けなければならないために、同じ技術者が続けて作業にあたれないことだと思う。

今日までにどれくらいの人が作業にあたったんだろう。

今後どれだけの人が必要になるんだろう。

危険な状況の中で、少しでも被害を少なくするために作業を続けてくれている人達を応援したい。そして原発周辺で生活している人達を応援したい。

と言っても、私に出来るのは、今までと変わらず周辺産の野菜を買うことくらい。今のこところ。

みんなで頑張れたらいいな。

それで少しでもマシな形で、状況が安定的に治まりますように。
posted by 蝉ころん at 15:15| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月26日

電力消費のこと

東京電力の電力使用状況ブログパーツができていたのでサイドバーに貼付けてみた。

こういうの、他の電力会社でもあったらいいな。

あと、自分ちの電力メーターが家の中に欲しい。



節電のためにいろいろ調べてみたら、パソコンとかの情報機器よりも依然として家電のほうが消費量多いんだってわかった。

PC関係はほぼ電気的な動きで成り立ってるから、ロスが少ないんだな。

家電製品は、エアコンとか、湯沸かしポットとか、冷蔵庫とか、炊飯器とか、コンロとか、電気を熱に変えるときに無駄が多いのと、あと、熱を利用することそのものがすごいエネルギーがいるんだな。

熱を使うのは、効率よく、同じ場所に集めるのがよさそう。

冷蔵庫なんて、寒い時期ならなくても北側の寒い部屋に置いとけば大丈夫だったりする。凍らせるのは無理だし、夏はそうはいかないけど。

キッチンは南側でも、貯蔵は北側にするとかで冷蔵庫の電力もマシにできるかな?

考えてみると、いろいろとエネルギーを無駄に使うように生活が変化してきたんだなーと思う。

昔は冬はみんなこたつに集まってたし、夏は窓を開け放してゴザ敷いたり、よしずやすだれで熱を防いだり、いろいろと工夫してた。

今は、みんなが集まる部屋が密閉性がほとんどなくてあっためても熱がどんどん逃げちゃうし、まあうちは夏はエアコン使ってないから電力消費はマシなほうだと思うけど・・・。

色々、工夫できる余地はあるなー。



あとはー。太陽光とか風力とか、家庭用発電システムつけたいな。

そんなお金使ってらんないんだけど・・・・。

いつか、ね。

今は生活を工夫して電力消費がどれだけ落とせるかやってみたい。
posted by 蝉ころん at 13:33| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月18日

私の中にあった不安

前回書いた記事について、なにか落ち着かないものを感じていたんだけど、少しわかってきた。

私は、自分の不安をごまかすために外に向けて発散していた。

報道を見ていると、思い出す。

緊急事態が怒ると、両親は、報道や、政府の対応に対して、いつも不平を言っていた。

私はいつもそれを聞かされていた。

人を責める言葉を聞かされ続けていた。

両親も不安だったんだろう。

怒りの形で、自分が何も出来ないことや、事態がなかなか好転しないことへの罪悪感を転嫁していた面が大きかったように思う。



私は両親の不安を受け止めていたんだな。

私自身の不安や恐怖は、私1人で消化しきれないまま、さらに両親の不安も引き受けていたんだな。

前回私が書いた記事はこれと同じことだ。

今も体中が緊張していて、自分が不安を感じているらしいことがわかる。

私はこの不安を外に向けただけだ。

子供の頃から消化しきれないまま、どう処理していいか分からないまま持ち続けているこの不安を、扱いあぐねて逃げただけだ。

あまりはっきりと現れてこないのは、最初から表に出せないままだったのが幸いして、否定される機会もなく、ねじれた感情にならずにすんでいたのかも。



怖いことは怖くていい。

不安なことは不安でいい。

消化できるまで時間がかかってもいい。
posted by 蝉ころん at 16:28| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月16日

東京電力と政府に勇気を

福島原発の状態が心配です。

今、東京電力の方々はいい知れない恐怖の中にあると思う。

自分たちが事態を収めきれない、刻々と状態が悪化する、それが露呈していく恐怖。

国民の怒りに対する恐怖、政府の怒りに対する恐怖、マスコミの怒りに対する恐怖。

日本政府も諸外国に対して同じように感じているんじゃないか。



東京電力や、日本政府だけで事態を収拾しなければならないと思い詰めてしまっているように感じる。

そして、そんなふうに追いつめているのは、マスコミだし、世間だと思う。

今は責めているときじゃない。

もう背負いきれないところまで事態は進んでいる。

見たくない事実を認めた方がいい。

そして少しでも早く情報を、世界に向けて公開した方がいい。

内部の人間よりも、外部の冷静な目の方が見えてくるものが多いはず。

努力を放棄するんじゃなくて、少しでもいい方法を見つけるために。

もう、日本だけの問題じゃなくなっている。

みんなに一緒になって考えてもらっていいんだと思う。

勇気を出して、踏み出してほしい。




そして、現地で危険な作業にあたっている東京電力の作業員の方々、周辺地域の住民の方々が、どうか無事でありますように。
posted by 蝉ころん at 15:25| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月08日

このままの私でいいや

イライラは地雷を踏まれている状態。

足が離れると、怒りになって爆発する。

イライラの時点なら、実は分解解除できる。

私の感じている怒りは、不快に感じる出来事そのものじゃなくて、その出来事から引き起こされるであろう不利益、つまり他人の不快から起こる怒りを乗せられること、に対して発生している。

予期不安ならぬ予期怒り。

不安を通り越して怒りへ突き抜けてしまっている。

この道がどれだけよく使い込まれた道なのかと思くらいスムーズに通り抜けてしまう。

予期だから、実はまだ怒りの直接的な引き金になる後乗せの怒りは被ってない。



書くことだ。

出すことだ。

頭の中でぐるぐるとイライラを持ち続けていても、同じ道を繰り返すだけ。余計に増幅されていくだけ。

私が今までブログでやってきたこと。

書くことでどれだけ自分が見つめられるか。

そして、どれだけひどい状態の自分でも、ブログに書いて公開するということで、公に見せてもいい、恥ずかしくない自分なんだって私自身が認めたという証拠として、私自身がどれだけ嬉しいことか。

私は私を誇らしく思っている。

そしてそれを書いてくれることを嬉しいと思う。

私の中は分裂している。

感情ごとの、年代ごとの、いろんな私が、記憶を共有しながら生きている。

それならそれでいいじゃないか。

私は、私のためにこれを書くことができる。

これを読んでいる私に伝えるために書くことができる。

視覚は共有しているらしい。

こんなことを書いてるだけで嬉しくて泣けてくる。

私はこんなことを伝えてほしかったんだ。

そうだ。褒めてほしかったなら、ここでどんどん褒めていいんだ。

イタくたっていいじゃないか。

どうせもう私はイタいんだ。

今更イタくない人間のふりなんかしなくたっていいじゃないか。

私はそんなイタい私のことだって大好きだ。




スイッチ入ったら書こう。

感じてるままに、書こう。

腹が立ったなら腹が立ったって書こう。

嫌な予感がするって書こう。

嫌いなら嫌いって書こう。

子供たちを嫌いだって思ったらそれも書こう。

どっかいっちゃえって思っちゃったらそれも書いていい。

バカーー!ってここで叫んじゃえばいい。

私はそれを読んだらいい。

それで一緒に怒ったり泣いたり笑ったりしたらいい。

私の中のたくさんの私と一緒に、共有したらいい。

それで最後に私に大好きって言ったらいい。

その先は、その後のことは、そのときの私が決めることなんだね。
posted by 蝉ころん at 12:57| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月12日

お気に入りのもので生活すること

部屋がある程度片付き、あとは大物(婚礼家具とか)だけを残す状態になって、進行がとまっている。

ここまできて、なかなか動けないのは、自分だけで処分ができないものだからっていうのと、近所に見られるから。

電話をかけて見積もり依頼をしないと・・・・

なるべくいっぺんですませて終わらせないと二度とできない・・・・

あとで何か言われるかな・・・・

言葉にしてみたらこんなかんじ。



あくまで自分の意志で進めないと続かないから「捨てる」とか「片付け」系のHOW TO本は普段は買わないんだけど、昨日は、「持たない暮らし」って文庫を買った。

たぶん自分の背中を押したかったんだな。

読み進めていくと、すごい共感とともに、なんだ、私、これでよかったんだ、って思った。

割と早いうちから私の中にあったものと考え方がすごく似てる。

気に入ったものしか家に入れない、気に入らないものをとりあえず買わずになしのままで工夫する、とか。

で、私のネックもわかった。

他の人が持ってるものだと、なんとなく自分も持っていた方がいいような気がしてしまうこと。

人がくれると言うと、断れない、使わなくてはいけない気になること。

薦められると良いと思わなければいけない気になること。

これって全部縛りだ。

自分の感性より、他人の感性を優先しないといけないって考えが、本当は好きじゃないものを家に入れてしまう行動につながってる。

ここをちょっと意識して、自分でいいんだよって背中を押すように気をつけてみよう。

一から始めてみよう。




それで、またまたつながったこと。

元夫のことが、そもそも「薦められた人」だった・・・・。

そして元夫もそういう感じだった。実際、好きじゃなかったと言っていた。

お互いに、気に入るかどうかもわからないのに、世話になってる人、仲良しな人に薦められたから断ることができず、付き合い始めてしまった。

特に好きとも思っていない相手のことを、決定的な欠陥がないからってだけでそばにいて、常になにか不満をもっていた。

私は付き合っているのに不満を感じている罪悪感を消すために、一所懸命好きになろうとした。

私たちは別れを切り出す罪悪感から逃れるために一緒にいただけだった。

私に致命的な欠陥を見つけたとき、元夫は出て行った。私が故障したから、元夫の捨てる罪悪感がなくなったんだ。

そしてついでに元夫は、実家で使っていた数々の気に入らないものを置いていった。

親の思いが残っていて捨てることのできないものを、捨てずに処分していった。

私に捨てることの責任を押し付けて出て行った。




部屋のとっちらかりも、人間関係も、おんなじなんだな。

縁があって関わった人だから大切にお付き合いしようって、すばらしいことだから、そうなりたいと思って頑張ってきた。

でも、私はちょっと辛かった。無理してた。

私はそれで楽しいタイプじゃなかった。

元夫は私を自分の気に入る人間に変えようとしたし、私は元夫を受け入れられる私に変わろうとした。

二人とも、私を変えようとしていた。

元夫の実家がくれるものが大きな負担だったな。

ものすごく振り絞って断っても絶対もらわされたし、仕方なく使った。

使うたびに嫌な気持ちになりながら使ってた。

やっぱりやめよう、って、使わないようにしたら元夫は不機嫌になった。

私が使いたくないものを使わないと不機嫌になられることが悲しかったし辛かった。

私はなにも欲しくなかった。

私は自分で好きなものを選んで、好きなものが見つかったときに、高価なものでも思い切って買うスタイルなのに。

そういうことを何度も言っていたのに。行動もしていたのに。

勝手にチープなものをくれないでほしかった。無理矢理気に入らないものを買わせないでほしかった。



うん。

これも、実家と同じ。

勝手に、くれる。

ほしいものは、くれない。

私は、ほしいものしかいらなかった。

好きじゃないものを好きなものの代わりに渡されて好きなものをもらうチャンスがなくなるなら、そんなものは一切いらなかった。

好きじゃないもので満足しなければならないことが、とてもとても不満だった。

そしてそういう感性を、贅沢だと言われたんだ。悪いことだと責められたんだ。

せっかく買ってやるのにって。

あんたたちがたまたま気まぐれで与えたくなっただけじゃないか。

私が欲しいわけじゃないじゃないか。



いくらでも待てるのに。

本当に欲しいものが手に入るなら、いくらでも待てるのに。空けておけるのに。

埋め尽くさなければ取られていくスペース、そのときでなければ買ってもらえないタイミング、へそを曲げたら全部パアになる親の機嫌、そんなものに急かされて、とりあえずで埋めていた。

私に取ってはとりあえずでも、親にとっては、大切にしてほしい与えてやったものたち。

親を満足させるためには捨ててはならず、場所を占領する気に入らないものたち。

私は自分の気持ちより親の気持ちを優先して自分のまわりにものを置いていたんだな。

親の気持ちを優先して親と一緒にいたりいなかったりしてたんだな・・・。




最近、粗品とかを断ることができている。

逆に、欲しいものを自分から言ってみたりしたこともある。

そんなんでもいいんだなって思う。



まずは、使ってない大きな家具を処分しよう。

それから、目線が通るくらいの小さな家具を揃えよう。

時間をかけて探したらいい。

ゆっくりでいい。

今決めなくていい。

出会いがあったときが、決めるとき。
posted by 蝉ころん at 12:07| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月16日

外食中のできごと再考

週末のあの感じを思い出す。

自分でビックリした、あの、いきなりのムカムカ。

やっぱり、ハラッサーが相手に叩き付けるときに怒る名目は、口実に過ぎないんだって実感した。

とにかく目についたことを怒って、怒りを出してしまおうっていうだけなんだ。

直前になにか気に障ることがあったらそれしか原因に思えないからそれを口実にするだろう。

だって本当になにもないところに突然ムカムカが沸いてたもの。

しかも、怒りが去って普通の感覚に戻ってしまえば、あのムカムカの感覚は残っていない。

記憶には、ただ、口実として使った相手の失敗の事実と、少し怒り過ぎたかも、くらいの情報が残る。

頭はそういうふうに出来ているみたいだ。



頭ってのは、何かの状況をキーにして、過去の情報と結びつけて、導いた対処法だけをポンと体と心の反応として出してくるらしい。

たぶん、その、利用する過去の情報がまずいんだ。

現状と似ているように判断されてしまっているけど、実は現状とはまったく違う経験を利用してしまってるんだ。

恐くないはずの状況で、恐かった過去の出来事を利用しているし、楽しい状況で、緊迫した出来事を勝手に持ち出してくるし、困った状況なのに、ふざけてなぜか場が和んだ経験を使おうとするし。

頭が、勝手にやってる。

勝手に、適切でない対応の経験を、過去の成功事例として持ち出してくる。

「こうしよう」が頭に浮かぶんじゃなくて、すでに「こう」しちゃってる状態で現れてくる。体(動き)も、心(気持ち)も!

しかも、その経験を選ぶ過程はまったく意識に上らないから原因は目の前にあるように思うし。



だから、困るんだ。

確かに私が育った家ではその方が安全だった。

何度もその対応をしてきた。

でもそれは、すごくねじ曲がっている対応で、混乱の原因になってるんだ。

適切な対応はまだ自動的にはでてこないんだから、いちいち修正していくしかない。

そして、頭の中に新しい経験をたくさん仕入れて、古い情報よりも新しい情報を勝手に選ぶようになるくらい、経験するしかない。

学ぶというより、無意識を相手に教える感じ。

自然に出てくるほどに身に付くまで、じっくり教え込む感じ。

そんな感じで。

やっぱ先が長そう。

posted by 蝉ころん at 19:00| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月12日

私の記憶力ってやつ

私の記憶力、特に身近な出来事についての記憶力が低いことの原因がなんとなくわかったかもしれない。

私って、友達もほとんどいなかったし、親も兄弟も私と話なんかほとんどしなかったからっていうか私の話なんか聞かなかったから、私はその日のこととかあんまり話したことがない。

そういえば覚えてる。

学校から帰って、ねーねーって話しかけても、あとでねって。

すっごく嬉しいことがあって、るんるんで帰っても、家の中は真っ暗で。

楽しいことがあっても、辛いことがあっても、分かち合う人がいなかった気がする。

大人になってもずっと聞き役できたし。



記憶する意味がなかった。

伝えたい、共有したいことがあっても、伝える相手は存在しなかった。

なんのための記憶?

伝える相手がいないなら、引き出す機会がないのなら、記憶する意味もない。

たぶん、記憶はあるんだろう。データとして。

アクセスする機能がすごく低能なんだ。

引き出されないから。

私の記憶は、雑学とかそんなんばっかり。

なにって、実行できること。

人生の参考にできるようなこと。

人に伝えるための記憶じゃない。



なるほどなーと思った。

これも改善していけることだな。

posted by 蝉ころん at 15:19| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月10日

夜中に考えたこと

昨日の夜考えてたこと。



私は母が好きだったな。

母からの好きは感じられなかったけど。

幼稚園くらいまで、母は私の好きを受け取ってくれてた。それなりに。

一緒にいれる時間もあったし、アイコンタクトはなくても、そばにいられた。

小学生になって、一気に受け取ってくれなくなった。

一緒にいる時間がほとんどなくなった。

会話もなくなっていった。

私の乳母がわりだった兄も私の相手をしなくなった。

私は好きを向ける対象を失った。

空いた時間をただ、埋めるだけになった。

誰もいない空間を無視して没頭するだけ。

私の好きはどこに埋まったんだろう。

今はどこを向いてるんだろう。

私の大事なエネルギーの源は。

それとも私は、見つけたくないのだろうか。

今まで色々掘ってみたけど、「好き」は出てきたことがない。

本当にあるんだろうかなんて思う。





うつ状態だったときのこと。

辛かったのは、うつじゃなかった。

休めば動けるようになるのは自分ではわかってたから、動けないのが辛いんじゃなかった。

動けないことを許されないことが辛かった。

病院でうつの診断をもらってからも、辛さは同じ。

休みたいだけ休めればよかった。

でも、元夫からは全力で治そうと努力することを求められていた。

全力で薬を効かせ、早急に回復させるために休まねばならなかった。

そんなのが辛かった。

私のうつ状態は潜伏してる。

私の中に、常にある。

必要に応じて出てくる。

子供の頃から頻繁にあったから、そういうことも知ってる。

だからどうやったらよくなるかもよく知ってた。

私が回復のためにしていることは周りにはなまけてるとしか見えないことも。

そんな「周りの人間」が見張ってたのが辛かった。

私の思いを理解してくれない人間が一番身近でコントロールしてこようとしていたのが怖かった。




夜は寝付き損ねるといろいろ考える。

昼間ならあんまり浮かばない、ダークなことが多い。

それはそれで、夜ならではのことで、いいのかもしれない。

posted by 蝉ころん at 09:52| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月16日

加害者気質と被害者気質について思うこと

私が被害者にもなり、加害者にもなり、そこそこ自分を探る旅もしてきてことで、昔の謎が、どうでも良くなっていることに気付いた。

どうして加害者になる人となる人と被害者になる人がいるのか。

私は被害者にも、加害者にもなったので、ハラスメントの被害者加害者の生育環境には似たものがある、という話を自分の存在で証明したようなものだけれど。

今になって、私なりの答を出すとすると、責任、かな、と思う。



生育環境で、自分の本来持つべき以上の責任を背負わされていたら、そのまま人の責任を背負い込むように生きてしまい、結果被害者になりやすいかもしれない。というか、加害者気質の人に捕まりやすくなる・・・という感じ。

逆に、自分の持つべき責任を持たせてもらえず、常に奪い取られて別の誰かが背負っているような環境だと、加害者になりやすいように思う。

それから、いつも誰か別の人の責任を背負い込まされていたけれど、隙あらば他の人に乗せてしまえ、と狙っているタイプ。被害者にも、加害者にもなる。私はこのタイプかなと思う。

どのパターンにしても、各自が負うべき、苦しみや、悲しみ、辛さの原因を、誰か特定の人物を犯人に仕立て上げて、丸投げして逃げたい、っていう心理があるように思う。

自分が苦しいことに耐えられなければ、他人に背負わせるし、人が苦しんでいることに耐えられなければ、他人の分まで自分で背負い込んでしまったり。

対象が自分か他人かっていうだけで、実は誰かを責めている時点でしていることは同じに思える。



犯人はいらないんだよね。

自分の苦しみは自分で持つ。他の人の分は、勝手に奪い取らない。それだけのこと。

たとえ子供であっても、その子の背負える分は、その子が背負う分。

背負えない分は持ってあげるほうがいいけど。

背負う力を育てる機会を奪ってはいけない。

辛いことを解消したければ、状況の改善のために原因を探るだけ。無理矢理犯人を作らなくていいい。

犯人探しをしてしまうのは、ハラスメント界の習慣なんだと思う。



そして、加害者が、加害に気付くかどうかのポイント?

相手が被害を受けている状態に耐えられなくなること。

相手を本当に好きかどうか、にかかっていると思うんだなあ。

自分を好きなのと同じくらい、相手のことを好きかどうか。

私の私見ですが。

これはかなり難しいよねえ・・・。

posted by 蝉ころん at 17:27| Comment(5) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月05日

永遠に続くとしたら

それが永遠に続いたら耐えられるのか?って沸いてきた。



なるほど。

確かに私はよく、あと○○の辛抱だから、って我慢をしていたな。

いつまでも続くなら無理、ということは、やっぱりもともと無理してるんだよ。

減っていってるんだよ。

私のエネルギーを分けるとき、今の状態が永遠に続くなら嫌だと思うなら、やりかたを変えることも考えた方がいいかも。

私が続けられる方法を選ぶ。気持ちよくできるやり方で選ぶ。



よく、明日死ぬなら最後に何がしたい?って質問はあるけど、真逆な感じかな。

明日死ぬなら〜は本当にしたいことを見つける質問だけど、これは本当は嫌なことかどうかを見分ける質問かな。

これもいいかも。

ときどき自分に確かめてみよう。

posted by 蝉ころん at 21:12| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月16日

ハラッサーの私

長かった1週間、自分の衝動がぼろぼろ出てきて、暴力衝動まででてきて。

子供に向けることは押しとどめたけど。

やっぱり私、ハラッサーだ。



モラハラも、DVも、パワハラも、クレーマーも、根っこがおんなじだってよくわかる。

ハラスメントは全部おんなじ。

自分の中の怒りの衝動を全部目の前のターゲットのわずかな染みにぶつけること。

ぶつけかたも、ターゲットのあり方も関係ない。

ただ、自分が持っている怒りに似た波長の弱みをターゲットが持っていれば成立する。

どんな相手にだってできる。

こちらが向けたい衝動に対して相手が罪悪感を感じさえすれば。

とことんエスカレートさせられる。

自分の中のそんな衝動に気付いたのは中学生のときだったんだ。

それ以来、ひたすら押さえつけてきたけれど。



手段にブレーキをかけると、ころころと形は変化していく。

暴力を押さえれば言葉が暴走する。
言葉を押さえれば無視。
無視が悪ければ態度。

相手の罪悪感が反応する形で続いていく。

怒りを解かなければハラスメントは消えない。

自分でも気付かない形で進行していく。

自力で怒りの元を探して、解いていくしかない。

自分の力で、解いていくんだ。

解けば、軽くなっていくから。

軽くできるんだ。



被害者は鏡。

深いところにある自分の心。

自分の出した結果。

結果の自分。

逃げないで見つめるんだ。

軽くできるんだ。

大丈夫。

怖いけど大丈夫。

できるよ。

できるんだよ。
posted by 蝉ころん at 18:57| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月19日

ポンと出てきたので書いておきます。

私の親は、特に父は、「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」「お母さん」「お父さん」という呼び方にすごくこだわっています。

うちの子供たちは、いつのまにか名前を呼び捨てで呼び合うようになっていて、それがとっても自然なので、私はそれでいいと思っています。

でも親は納得しない・・・。役割を押し付けないと気が済まないようです。

さっき、何気なく独り言で言い返して(?)みました。

「お父さんたちの時代は、長男・長女の役割があったり、継ぐべき家業があったりしたかもしれないけど、うちはそういうの関係ないからいいんだよ。二人とも対等なんだよ。ただ帰ってこられる家があるだけなんだよ」

言葉にしてから、これってすごくステキじゃない?と思ったの。

「帰ることのできる家がある」

わ〜〜〜。羨ましい〜〜〜〜!!

私には安心して帰れる家はなかったからね。家を出たとたんに部屋は浸食されたしね。

でももう、私にも帰る家があるんだ。私の場所があるんだ。やったね!

役割付きの家なんて、いらないも〜ん!

子供たちの場所も大切にしよう。



・・・なんかさっきの記事とテンション違いすぎてごめんなさい。(^^;;
posted by 蝉ころん at 13:44| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月14日

悲しみと怒り

なつ草さんのブログで怒りについての覚え書き記事を書かれています。

記事を読んで悲しみと怒りの違いについて思いついたことから、考察してみました・・・。あくまで私個人はこんなふうに捉えてみた、ってことなので、話半分、いや4分の1くらいで読んで下さい。(^^;;

=====================================

悲しみと怒りは、元となるきっかけがどうも違うらしい。

悲しみ・・・こうであって欲しかった、でもそうならなかった。
      希望が叶えられなかったときの感情

怒り ・・・こうであるべきのことが、そうならなかった。
      義務が果たされなかったときの感情

なのかな、と思った。

悲しみは、自分の希望のみの問題だから、伝えられるなら相手に伝えて理解してもらうとか、どうして叶えられなかったかなどを自分で理解したり、慰められるなどで、自力でも他力でも消化できる気がする。それも、悲しみで被害が及ぶのは基本1人、本人だけ。通常他人には影響は及ばない。よほど共感し過ぎる人や、罪悪感を持ちやすい人などは影響されるかもしれないけど、悲しんでいる人が押し付けたものじゃない。

怒りの場合は、義務が「正常」に果たされた場合は収まる。ただ、正常に、というのも、義務そのものも、怒りを発している人間が規定するので、周りの努力で怒りが収まるとは限らないし、周りに向けている物だけに本人にも怒りをおさめられない。



怒りの原因となっている「義務」の規定を根本から消し去ることができれば、「義務」を「希望」へと変更することができれば、怒りの発生を抑えることができるんだろうか。でもこの「義務」は怒る本人が規定しているものだから、本人が納得しなければ消したり変えたりなんてできないだろうし、他人からの働きかけで怒りを抑えるのは難しい気がする。さらに怒りの向いている相手からの働きかけとなると、「義務」を放棄したいからの言い訳ととられて逆効果になるだろうと思う。

怒りを発するハラッサーを、被害者が改心させようというのはやっぱり難しいのか。

ハラッサーが自分から、または、ハラスメントの対象となっていない人物からの指摘で、ハラスメント行為を自覚し、自分の中に根付いた「義務」を問題視しない限り、改善は難しいものなんだろうなと思った。



悲しみは、自分の欲求が元なので、感情を収めてあげれば自分で消化させることができる。

怒りは、欲求や感情を正当化するために意味付けして理論武装したものが元になっているだけに、つい理論で打ち負かそうとしてしまう。でも根っこは深層心理の正当化なので、破綻しようがなんだろうがいくらでも理屈を変えて対抗してくるだけで、怒りが収まることはない。まずは本人に根本の感情に気付いてもらわなければいけないということか。

それを被害者からのアプローチによって成し遂げる方法があるのかどうか。

私なら、怒りの頂点にいる時、子供からなんと言われたら我に返ることができるだろう・・・。

ひょっとしたら、子供の前で泣いたらいけない、という気持ちが、感情を抑えることにつながって悲しみを怒りにしてしまっているのかもしれない。怒りから我に返ったら悲しくなることが多いし。

そういえば「泣いたらいけない」も義務だし・・・。

とりあえず今日はここまでで。
posted by 蝉ころん at 23:16| Comment(4) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月12日

挨拶について

るんたさんから頂いたコメントに触発されたので挨拶について。(^^

「おはよう」は、「私はここにいるよ」っていう存在を示す言葉だと、るんたさんのお言葉です。そうですよね、声を発することで注意を引いて、ほら、いるよ、って示してるんですね。

それから、「あなたもそこにいるね」って意味もあるんですよね。相手がいるのが分からなければ挨拶なんてしませんから。自分と相手の存在を認めるのが挨拶だなあ・・・って思いました。だから挨拶して返事が返ってくると嬉しいんですね。



でもこれも、使いようによっては・・・

・顔を見ずに挨拶する
・不機嫌に挨拶する
・自分からは挨拶しない
・挨拶も返事もしない

こういうことしてるとマイナスになっていきますね。

顔を見ないで挨拶は、忙しいときは仕方ないこともありますけど、毎回となると、惰性で声を出してるだけで相手の存在を認めているとは思えませんし。不機嫌な挨拶って、挨拶するの面倒みたい。声かけて悪かった?って思っちゃいますよねえ。必ず相手から挨拶してもらって自分から挨拶しない人は、自信のなさからくるものだと思いますけど、すごく受け身ですよね。さらに返事もしない人となると、もうすっかり閉じこもっちゃってて、どんどん人との接触が無くなっていきそう・・・危険です。

こういうマイナスの挨拶になっちゃう状態って、なんだか余裕ないですよね。自分のことで手一杯な感じがして、自分がその立場だったらと想像すると辛いです。こういう状態から、普通の挨拶ができるようになれたらいいのになって思います。もっと進んで、プラスの挨拶が出来るようになれたらもっとすごい。



プラスの挨拶って、やっぱり笑顔で相手の顔を見て。

「あなたに会えて嬉しい」
「あなたがいてくれて嬉しい」

そんな気持ちがこもった挨拶ですね。

私はまだまだこの挨拶をもらう側です。私から嬉しくて笑顔でって、まだあんまり経験がないです。とりあえず会ったから挨拶してるだけかも・・・。まだ余裕ないです。

でも・・・会えて嬉しい気持ち・・・あるなあと思うんです。だから、それを出せるようになりたいです。それから、会えて嬉しい気持ちをちゃんと受け取りたい。せっかく笑顔で挨拶してくれてるのに、こっちは挨拶を返すことで手一杯で、気持ちを受け取ってなかった気がします。

ああもったいない。

お日様の光に気持ちよくあたるように、相手の笑顔を気持ちよく受けられるような、余裕のある私になりたいなあ。そしたら、自分からも無理矢理笑顔じゃなくて自然に嬉しい笑顔ができるかな。

そんな挨拶がしたいなあと思いました。
posted by 蝉ころん at 10:45| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月05日

今の夢と未来の自分

夢ってありますか。

私はあまり夢ってないんです。親元にいたころの夢は、そのころはあまり自覚してなかったけど、独立して親から離れて暮らすことだったから、それは一応達成出来てはいるみたいです。

でも、今はあんまり未来の展望ってないです。母子家庭でなんとかやっていくこと、くらいでしょうか。それだって今の時勢ではかなり大変な夢だと思いますけど。


私は、夢に縛られちゃうところがあるような気がします。先日書いた、「一つことを長く続けてやり遂げるのがいいこと」ってのに捕われてるから。

小さいころの夢をずっと持ち続けて大人になって成し遂げた人ってカッコいいですよね。

でもそれって、みんなできることじゃないし、出来ないのが「悪いこと」ではないはずなんですよね。

でも私は、目標を達成出来ないことにすごく不甲斐なさを感じてしまうように育ちました。

小さいころなんて、「あれやるー」「これやるー」「やっぱりヤメター」で、途中でやりっ放し、放りっぱなしで、当たり前、普通なんですけど、私はこの経験をしていないというか、否定されていたようです。

やりたいと言ったら、それは必ず成し遂げなければいけない。一度手をつけたら、最後まで自分の責任でやり遂げなくてはいけない。

そんなかんじ。

それで、変に諦めがよくなり、どうせできそうにないから最初からやめとこう、になってしましました。

そして、なんでも途中でやりっ放しの自分を認めてあげることもできず、ダメな人間だって劣等感を持ち続けています。



夢とか目標って、その夢を描いた時、目標を持った時、その時の自分だけのものなんですよね。未来の自分がまだ本当にその夢を成し遂げたいと思ってるかどうかなんて、わからないんです。

そうすると、夢を成し遂げることに固執することって、未来の自分の本当にやりたいことを犠牲にしている場合もあり得るってことじゃないでしょうか。

固執しなくていいんじゃないか。自分の夢からだって、自分で逃げてもいいんじゃないか。

甘いですか?

でも、本当にその時その時の自分を大切にするなら、その時その時で新しい夢を見てても、いいんじゃないかなあ・・・って、思うようになった私です。

人を巻き込んでなければ、それでいいんですよね。
posted by 蝉ころん at 15:00| Comment(7) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月28日

ある人物との関わりから

辞めた職場に、1人親近感を持った人がいました。

話し方や仕草が、兄に似ているなあと思っていて、様子を見ていると、兄に自信を持たせた感じでした。

始めのうち、警戒心なく接していたんですが、兄に似ていることに気付いてから、ちょっと冷静に見てみよう、と言う気になりました。兄は、私にとっては近い人間なのであまり意識してないですが、モラ要素を持って育った人物です。

兄に似ている人が、モラである確率はかなり高い!

そして、だんだんと職場の力関係が明らかになってくると・・・やっぱりモラでした。ええ。はっきりとモラでした。本記事の主旨はこの人物のさらし上げではないので詳細は省きますが。



この人物との関わりで、やっぱり、私はモラに対する免疫がつき過ぎていて、近づくことに警戒心を持てないんだってことがよ〜〜くわかりました。いろいろ考えて分析してきたおかげで、早期発見できたんですよね。以前の私なら、きっとわからないままあそこにいて、どんどん力をなくしていってたかも・・・と思います。

やっぱり、ここまで1年以上かけて状況を分析してきたこと、分析する力を付けたことは、間違ってなかった。私を守る力になっています。

モラを知った時点でとりあえず逃げていたら、もう一度モラに遭っていたか、私がモラ化していたか、どちらかは避けられなかったでしょう。少なくとも生活が出来る状態で考える時間が持てたことは、私にとってはラッキーでした。心理的な回復と、現象への理解の二つの面で、この時間は必要でした。

初めてカウンセリングルームを訪れたあの日、「まだ逃げていいとは言ってもらえないのか」「やっぱりまだ私は努力が足りないのか」と涙をこぼしながら帰ったことを思い出します。私は夫から逃げたかったし、全てを投げ出したかった。

でも、カウンセラーさんは、私が自分で答を探し出すまでは、「逃げていい」とは言いませんでした。そして、少しずつ回復した私が、自分から色々な選択肢の中から「夫と暮らさない方を選ぶ」という解答を出した時には、助言とともに応援をしてくれました。

この期間に、私自身でははっきりわからない、関係を理解して分析する力を付けていたんでしょう。



考えれば考えるほど、気付きをくれた被害者同盟さん、逃げ出すことを勧めずにいてくれたカウンセラーさん、もがいている時を一緒に歩んでくれたブログ仲間のみなさんとの出会いは本当に貴重なものだったと思います。支えてくれたみなさんに感謝でいっぱいです。

そして逃げずに回復を優先することを選んだ自分自身にも。また、回復中の大半の時間を気付かずに過ごしてくれた夫に対してさえも。(笑)

この表題の人物との関わりでも、たとえこの人がモラであっても、私にとって大事なことを気付かせてくれた出会いでもありました。

いろいろなことが、私の支えになって、今の私があるんですよね。本当にありがたいことです。
posted by 蝉ころん at 16:10| Comment(2) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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