2007年11月14日

悲しみと怒り

なつ草さんのブログで怒りについての覚え書き記事を書かれています。

記事を読んで悲しみと怒りの違いについて思いついたことから、考察してみました・・・。あくまで私個人はこんなふうに捉えてみた、ってことなので、話半分、いや4分の1くらいで読んで下さい。(^^;;

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悲しみと怒りは、元となるきっかけがどうも違うらしい。

悲しみ・・・こうであって欲しかった、でもそうならなかった。
      希望が叶えられなかったときの感情

怒り ・・・こうであるべきのことが、そうならなかった。
      義務が果たされなかったときの感情

なのかな、と思った。

悲しみは、自分の希望のみの問題だから、伝えられるなら相手に伝えて理解してもらうとか、どうして叶えられなかったかなどを自分で理解したり、慰められるなどで、自力でも他力でも消化できる気がする。それも、悲しみで被害が及ぶのは基本1人、本人だけ。通常他人には影響は及ばない。よほど共感し過ぎる人や、罪悪感を持ちやすい人などは影響されるかもしれないけど、悲しんでいる人が押し付けたものじゃない。

怒りの場合は、義務が「正常」に果たされた場合は収まる。ただ、正常に、というのも、義務そのものも、怒りを発している人間が規定するので、周りの努力で怒りが収まるとは限らないし、周りに向けている物だけに本人にも怒りをおさめられない。



怒りの原因となっている「義務」の規定を根本から消し去ることができれば、「義務」を「希望」へと変更することができれば、怒りの発生を抑えることができるんだろうか。でもこの「義務」は怒る本人が規定しているものだから、本人が納得しなければ消したり変えたりなんてできないだろうし、他人からの働きかけで怒りを抑えるのは難しい気がする。さらに怒りの向いている相手からの働きかけとなると、「義務」を放棄したいからの言い訳ととられて逆効果になるだろうと思う。

怒りを発するハラッサーを、被害者が改心させようというのはやっぱり難しいのか。

ハラッサーが自分から、または、ハラスメントの対象となっていない人物からの指摘で、ハラスメント行為を自覚し、自分の中に根付いた「義務」を問題視しない限り、改善は難しいものなんだろうなと思った。



悲しみは、自分の欲求が元なので、感情を収めてあげれば自分で消化させることができる。

怒りは、欲求や感情を正当化するために意味付けして理論武装したものが元になっているだけに、つい理論で打ち負かそうとしてしまう。でも根っこは深層心理の正当化なので、破綻しようがなんだろうがいくらでも理屈を変えて対抗してくるだけで、怒りが収まることはない。まずは本人に根本の感情に気付いてもらわなければいけないということか。

それを被害者からのアプローチによって成し遂げる方法があるのかどうか。

私なら、怒りの頂点にいる時、子供からなんと言われたら我に返ることができるだろう・・・。

ひょっとしたら、子供の前で泣いたらいけない、という気持ちが、感情を抑えることにつながって悲しみを怒りにしてしまっているのかもしれない。怒りから我に返ったら悲しくなることが多いし。

そういえば「泣いたらいけない」も義務だし・・・。

とりあえず今日はここまでで。
posted by 蝉ころん at 23:16| Comment(4) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
おはようございます。
怒りと悲しみ…難しいですね。
ちょっと違うかもしれないけど躾と虐待の差異に似ている気がします。

うちの夫の場合ですが、ハラッサーが自分のしていることを自覚する可能性ってかなり低いと思います。なにしろ本人は善意なのだし、相手に迷惑だったり負担だったりすることが判っていても、それを敢えて要求して受け止めて貰えることが愛し愛されていることだと信じているからです。

それでこっちの我儘もきいてくれるんならわかるんですけど・・・・・(^-^;
「愛してるんなら僕に負担をかけないように気遣ってよ、ね♪」って、そりゃないよ!
そこのところがモラのモラたる証拠かと思うこの頃です。一見愛情表現にしか見えない。だから体験者しか理解できないかも。
Posted by 小麦 at 2007年11月15日 09:07
お返事より、こちらへ先に書かせていただきますが。

どこをとってもとても考えさせられる記事でした。

私は自分救済として、自分の為に自分の怒りをコントロールすることを第一の目的にしているのですが、蝉ころんさんは、怒りのターゲットになっている人(モラ被害者、あるいは子どもさん)のことも広く視野に入れて考えてらっしゃるのですよね。


私の読んでいる本では、ABC に続いてDという段階があって、非理性的ビリーフの「論破」をやるらしいのですが、それはやはり、自らが考えて、自らの間違いを糾す、という形となるようです。

他者からの指摘は・・どうなんだろう?


怒りの後ろ側にか、同時にか、「悲しみ」があるのは自分で分かっていました。

蝉ころんさんお書きのように希望が叶わなかったときの感情はあくまで、「悲しみ」や「失望」なんですよね。

なのに、「ねばならない」生き方に毒されていると
それが達成しなかったら不安になり、怒りになる。


でもって、本によれば、そういう人は「怒ってはならない」「不安になってはならない」と、さらに二次的な「ねばならない」にやられてしまうそうです。


>そういえば「泣いたらいけない」も義務だし・・・。

これ、がそうなんですね。



今の段階でわかることは自分から出来る限りmustの癖を取り除いてやること、そんな気がします。


やりたいことはやったら嬉しい
やれなくても残念なだけ。ダメもと また次の機会。


しなきゃならないことはしても当たり前
しなかったら 罪悪感


自分がmust とwant toをごっちゃにしてしまっていたのはわかります。

これって損な考えですよね。

子どもさんに関しては、親は躾の義務があるから、
野放図にするわけにもいかなくて難しいけれど、
明かに子どもがwant toでやってることを親がmustと勘違いしてしまうと、それを放り出した時点で「怒る」というようなことになるのかも。昔の自分への反省ですが。

たとえばひどいときには、子どもが小学生の頃家の中でばかり遊んでいるといって、お外で遊ばなきゃ元気にもなれないしお友達も出来ないよ、と叱って追い立てるように公園に行かせたことなんかありました。

子どもはただしたいことしてただけなのに、
私の中に「子どもはこうあらねばならない」ビリーフが渦巻いていたんでしょうね。

その時の子どもの悲しそうに出て行く表情は今でも頭から消えません。

>私なら、怒りの頂点にいる時、子供からなんと言われたら我に返ることができるだろう・・・。

反抗されるより 「悲しい」と言われたらハッとしますが、そんなこと言えません、小さい子は。

私には「悲しそうな顔」が堪えました。

行きたくない外へ行かされる悲しみなんかではないですよね。


子どものほうが上ですね。


「お母さんは賢くて冷静でなければならない」なんて「ねばならない」ビリーフなど持たず、「冷静でかしこい母親であってほしい希望」が叶えられてないことを正しく「悲しんで」いるのですから。

あ、長々と失礼しました。
でも、共に考えていけるひとがいてくれて、嬉しいです。







Posted by なつ草 at 2007年11月15日 19:32
>小麦さん

こんばんは。(^^

躾と虐待って、なるほど!

「〜しなければならない」義務に突き動かされているのが虐待で、「〜であったほうがなおいい」というマナーが躾・・・。

うん、確かにそんな感じ。うん。義務になっちゃってると、相手がそうなってないことが許せなくて虐待までいってしまう。マナーなら、もしそうなってもらえなくても、あくまでも粘り強く諭すのみで押し付けることもないから虐待にはならないんですね。

なるほど。虐待はパワハラだし、モラハラにも通じますね。と考えると、躾っていうのは上下関係じゃない対等な人間同士として、ただ知っている者から知らない者に伝えるというだけのことなのかもしれませんね。

ん?なんか脇道に逸れました?私。(^^;

えっと、モラが一見愛情表現に見えるのは、本人がそれが愛情だと信じているからっていう理由と、もう一つ、日本人の信じている愛情というものに実はモラが含まれているからなんじゃないかな〜と思ったりします。国民的に無意識にモラを容認している部分があるのでモラはのさばるし被害者は贅沢者の烙印を押されるし、たまったものじゃないですね。
Posted by 蝉ころん at 2007年11月15日 22:40
>なつ草さん

こんばんは。(^^

なつ草さんのところのコメント欄ではポイントがずれそうだったので自分の記事として書かせていただきました。怒りって深いテーマですね・・・。

私は今身近に怒りを向けてくる人があまりいないので、元夫のことと私自身の怒りをサンプルにしてしまうんですよね。あとはなんというか、理系の分析好きみたいなもので、ついつい普遍化したくなっちゃうので、ターゲットを広くしてしまいます。もっと私だけの個人的な問題解決だけでもいいんですけどねえ。困った性格です。(^^;


Dは「論破」になるんですね。ふ〜む。私の感覚では「論破」だと敵対しちゃう感じで、結局怒りと戦うんかい!ってツッコミ入れてしまいそう。

私は怒りもチャイルドの成せる技だと思うので、否定したくないですよ。怒りのエネルギーに頼らなきゃ乗り越えられないほど辛いことがあったからこその怒りと思えるので。論破が怒りを否定することになるなら、モラを被害者が論破したときのように別の形で表れてくるだけに思えます。少なくとも私の怒りはそれでは消えそうにないんですよね。

たぶんなつ草さんの読まれている本でもそういう意味の論破ではないんだろうと思うんですけど、「論破」って言葉がどうも「言い負かす」イメージがあるので突っかかってしまいました。すみません。(^^;;;


 >出来る限りmustの癖を取り除いてやること

これいいですね。mustを取り除く訓練をしてみようと思います。mustじゃなくていいんだよ・・・って自分を許してあげることかな。あと、私の場合は「今までよく頑張ったね」の労いを付けるとかなり効果アップなのです。


それから子供のwant toをmustにしちゃうの、よくやっちゃいます・・・。それはやっぱり私自身がmustにさせられてたからなんですね。思い当たります。やりたいって言ったからさせてやったのに全然楽しんでないじゃないかとか言われました。「したいことをするなら楽しいべきだ」ってことですよね・・・。

わーこれ、なんかすごい今でも縛られてる気がする。なんかかなりキーポイントに手が届いた気がします。私のやる気のなさ、無気力の元のような気が。たぶん掘ると何かでてくる。(^^;


なつ草さんはお子さんの「悲しい顔」で我に返れたんですね。私、「悲しい顔」や「泣かれること」でも怒りに火が注がれるんです。それは「悲しむこと」も「泣くこと」も許されていなかったってことになるんでしょうね。泣いちゃいけないのに泣いちゃうから悪い子なんだって思ってました。

 >「冷静でかしこい母親であってほしい希望」

う〜ん、これがちょっと不思議な感じ。私だったら別に冷静でなくても、かしこくなくてもお母さんはお母さんだなあと思うんですよね。私が泣いてるときは、泣いてる私を私として扱ってもらえずに悪い子になっちゃうのが悲しかったです。お母さんのことを冷静でない、かしこくない、なんて評価するようになるのはかなり大きくなってヒネてきてからでした、少なくとも私は。(^^;

 >「お母さんは賢くて冷静でなければならない」

これは私も持ってる縛りです。親は間違えないんだ!って肩肘張ってました。子供としてはかなり傷ついていたこともあったのに、いつのまにか同じようになってました。他の方法を知らないからすがりついちゃうってのもありますね。


こうしてまとまりきっていない文章でもコメント頂いて、さらに気付きがあって、やっぱり書くっていいですね。(^^
Posted by 蝉ころん at 2007年11月15日 23:51
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