家事が出来た時に褒める。じゃあ出来なかった時は?できないのは褒められることではない?出来たことだけ褒める?全く出来なかったら?
褒められるようなことが一つもないとき、そのままの自分でいられたことを褒める?
・・・なんだか変。
そんなふうに思ったんです。
褒めるって、目指している理想像があって、そこに近づいている行為に対してすることのような気がしています。
ありのままの自分を認めたい。それなのに、ありのままの自分を認める努力をしている自分を褒める?頑張っているのはありのままの自分なのか?
なんだか、パラドックスみたいでこだわり過ぎにも感じますけど、なんだか、気持ちを認める方向とは違う気がするんです。
これを続けたら、一日一褒に書くためになにかをしなければ、って自分を追いつめてしまう気がしました。
それで中断しています。
ありのままの自然な私を書きたいです。
家事をするなら、家事をしたいと思って、した結果に喜びがあったら、その喜びを書きたいです。辛かったら、頑張ったよね、って書きたいです。辛くても頑張ったけど結果に満足がいかなかったら、残念だったよね、でもいいし。褒めるんでなくて、共感したいです。自分の心の動きを認めることがしたいです。
子供の気持ちに寄り添うように、理想像を押し付けないで、気持ちの向く方へ、自分を感じて伸ばしていけるように。
「今日の共感」とかどうでしょうね?
ありのままっていうのは、短い言葉だけど実は難しいことですよね。お気を悪くされるかもしれませんが、今はその言葉に捕われすぎているように感じられるんです。
だから、もっともっとシンプルに。
「今日、わたしはついお昼寝をしてしまった。家事は出来なかったが、疲れを取ることが出来たし、このことに罪悪感を感じなくなったのは大きな進歩だと思う。」
「今日は良い天気だったので、洗濯をいつもの倍の量こなした。頑張れたと思う。」
「今日は子どもを叱ってしまった。もう少し子どもにわかり易い言い方があるように思えるので考えてみたい。」
え〜、これはこの2〜3日のわたしの生活を書いてみました。
書いてみるとやっぱりかなり見当違いかな〜という気がしてきましたが、何かのご参考になれば幸いです。
ついついややこしく考えてしまうので、なんだか深みにはまっているような感じがしますね。なんだか心配かけてしまってごめんなさい。(^^;
なんかね、「褒め」てるうちに、型にはめられていくような息苦しさを感じたんですよ。それで、アレ?自分で追い込んでない?って思ったんです。理想像にはまっていくための方法を変えただけじゃないのか?って。
それで、焦らずにのんびり考えて、やり方を変えてみました。新しくカテゴリつくって再開です。
シンプルでいいんですよね。再開第一回もついつい深みを探ってしまってますけど、本当は、「出来た、ヤッター」とか、「失敗した、ウワーン」とか、そんな調子で書けたらいいなーって思ってるんです。
書いちゃってから、意味を考えたり改善方法を探る、でいいんですよね。
小麦さんの例でも、ちょっと解説とか努力目標入ってますよね。私たちの癖みたいなものでしょうか、つい考えちゃうんですよね・・・。(^^;
もっと気楽に生きたい、そのために考える、って、なんかパラドックスですね〜。でも考えるの好きだし、それならそれでいいんでしょうね。