2006年12月22日

「お母さん」育て

今私は私の中にお母さんを育てています。インナーアダルトのことになるんだと思いますけど、私の中では「お母さん」が一番しっくり来たようなので、「お母さん」と呼んでいます。

今まで私の中で、私を見張り、私の行動を嘆いていた実際の母の目をしたお母さんではない、私を見守ってくれる理想の「お母さん」です。

子供と関わっていると、「お母さん」を育てるヒントが転がっています。

なかなか散らかった部屋を片付けてくれない。「うわ〜これだけ散らかってたら大変だね。どうやっていいのかわからなくなったね。一緒に片付けようか」と声をかけると、私がほとんどしなくてもどんどん片付いたりします。ひとりぼっちで取り組むのがイヤだった、お母さんに見ていて欲しかった、一緒にいて欲しかった。・・・なるほど。

私にも適用してみます。

やらなきゃいけないことを目の前にして絶望してきたら、いったん自分から抜け出して、客観的に見てみる。そして「私」に声をかけます。「うわ〜これは大変だね。やりたくないね。でもこれをしないと他のことができないんだよね。じゃあ、どうしようか?」私に戻る。「今日は、これだけにしたい」もう一度お母さん。「そう、じゃあそうしてみよう。ちゃんと見てるから、大丈夫だよ」

なんとなく、やる気が出てきて、思った以上に出来たりします。

子供が熱で食欲がない時。「今、体が一所懸命かぜの菌をやっつけてるからね。それだけで大変で、ごはんを片付けるお仕事はできないんだって。ごはんのお仕事はお休みにしてあげようね。また元気になったら食べられるからね」と説明してあげる。すると、納得して、無理に食べようとせずに落ち着いてくれます。

私にもやってあげる。

熱でふとんから出られない。子供の世話も最低限しか出来なくて、自分が不甲斐なくて、子供がかわいそうに思えてくる。そこで・・・「今は寝るのが大切。ここで無理してもっとひどくなったら、子供の横でも寝てられなくなるよ。体を治す時間を体にあげようね。子供のことは、子供ができる。ほら、ちゃんとやってるよ。お母さんが横にいてるだけで、安心しているよ。元気になったらまたいっぱい構ってあげようね。」

なんとなく、子供が誇らしく思える。

こんなことを、ときどきしてます。

「ちゃんと見てるよ。一緒にいるよ」という言葉、楽になるのにかなり有効でした。この言葉、インナーチャイルドの癒しにも何回か使っています。「お母さんは知ってる。ちゃんと見てたよ。あなたは悪くないよ」って。冤罪を着せられることが多かった私は、誰か私が悪くないことを、私がキチンとしていることを見てくれている存在を求めていたようです。

だから、そういう「お母さん」を育てています。

いつも、私を見守ってくれている。「嫌だな」と思った時、一緒に「嫌だね、でもがんばろっか。応援してるよ」と言ってくれる、嫌なことがあったとき、「嫌だったね。でも偉かったね。ちゃんと見てたよ」と言ってくれる「声」を、育てています。私が子供の頃に欲しかった声を。



誰でも、心の中に母の声があるんでしょう。やさしいお母さんならやさしい声として、厳しいお母さんなら厳しい声として、心の中にお母さんが住んでいるのは、きっとみんな同じ。その声に背中を押されて、時には励まされ、時には叱咤されて、みんな自分の行動を決めているんでしょう。意識をしている人は少ないだろうけど。中には縛る声もある、解放する声もある、いろんな声があるだろうけど、それは普通、実際の母親を離れて、独立して子供の心に宿っている。きっとそれが当たり前なんでしょう。それはマザコンみたいなものとは違う、心の礎のはず。

だから、小さい子になったつもりで、「お母さん」の声を育てていきます。ほかのどんな「声」より大きい存在になるまで。私の中に根付いて、わざわざ「お母さん」を引っ張りだしてこなくても、自然に私の背中を押してくれる「声」が響くようになるまで。

今、私自身は、子供たちの「声」になって、子供たちに根付きつつあります。子供を見ていると、以前の私の「声」に振り回されているのがわかるときがあります。私は今まで、私が子供たちに与える影響が怖くて怖くて仕方がありませんでした。取り返しのつかないことを植え付けていたらどうしようって。

でも、心の中の「お母さん」を育て始めて、少し不安が解けてきました。大丈夫。私が私の「お母さん」を求める限り、子供たちの「お母さん」にも、きっとなれる。私の心が、道案内してくれる。私の心が求めるお母さんを、子供たちにもわけてあげればいい。子供たちの求めるお母さんも、私にお裾分けしよう。私に「声」が寝付く頃、子供たちの「声」も、きっとそれなりの形になっているだろう。そんなふうに思えるようになってきました。

まだまだ他者の「声」が大きい私の頭の中、いつまでかかるかわかりませんけど、「お母さん」は負けないと信じています。だって、この「お母さん」は私。ずっと私の中にいて、いつでも私を見守っているんだから。
posted by 蝉ころん at 15:21| Comment(4) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「お母さん」と呼ぶのって、とてもいいですね。
「インナーアダルト」なんていうとロボットみたいな体温のない感じだものね。ほんとに身近にいてくれる感じがするし、何より自分が現役「お母さん」だから、馴染みがある。

蝉ころんさん、とてもいい感じに進んでいるんだな、とほっとしてます。


・・にしても、アダルト育てするのに、女性は有利ですね。男性なら、「優しい母」を欲していても、自分が「母」には・・なりづらいだろうしね。

わたしはなんとなくちい草の「おばさん」気分です。
せめて「叔母さん」としとこうかな^^

Posted by なつ草 at 2006年12月22日 16:52
>なつ草さん

こんばんは。今日は夜更かしです。(^^

 >とてもいい感じに進んでいるんだな、とほっとしてます。

なつ草さんにこう言ってもらえると嬉しいです。えっちらおっちらマイペースでも、ちゃんと進んでいるんだなって、外から見てもわかるんだなって。私もほっとしました。

私ね、自分の中に「お母さん」を置くことを発見してから、明らかにそれまでと違うんです。安心感があるんですよ。いつでも見ててくれる、いつでも聞いてもらえるっていう安心感です。それで、最近はほとんどチャイルドが出てこなくなりました。あんなに泣いてたのが嘘のように、ここのところ涙が出てきません。今アダルトは私そのもののために使っています。

心って不思議ですね。自分で作り出したものに、ここまで安心を貰えるとは思いませんでした。

考えたら、幼い子供が一番近くにいる大人に望む安心感って、この「いつでも見守ってくれていること」なんですよね。この安心感を私は持ってなかったんだなって。むしろ不信ばかりでしたからね。安心を得たから、チャイルドも満足できたのかな。

私はタイミングよくチャイルドと同じくらいの子供を育てている最中なので、「お母さん」が一番しっくりチャイルドを受け止められたんです。それは確かに現役の強みで、ラッキーだったと思います。

でも、きっと、自分が今チャイルドの年代の子供を見るときの立場のアダルトを育てればいいんじゃないかと思うんです。お姉ちゃんだって、お父さんだって、学校の先生だってありだと思う。自然に、普通に存在する子を見る目でチャイルドに目を向ければそれがアダルトになるんじゃないかと。

なつ草さんは「おばさん」スタンスがよかったんですね。そこはもちろん「叔母さん」ですよね〜。ちい草ちゃんもたのもしい叔母さんができて嬉しいでしょうね。ふふ。なんか、ちい草ちゃんとなつ草さんが手をつないで歩いてるイメージがわいてきました。

なんか不思議な世界ですけど、そういう想像をするのも、頭にイメージが焼き付いていいかもしれませんね。使ってみようっと。
Posted by 蝉ころん at 2006年12月23日 00:58
私…蝉ころんさんみたいなお母さんが欲しかった。
Posted by 虫食い枯葉 at 2006年12月24日 00:11
>虫食い枯葉さん

私の内面を読んでくれてる人にそんなふうに言ってもらえると照れるけど・・・嬉しいです。ありがとう。(^^

うまくいってるときのことを書いているだけで、まだまだ子供にはそんなふうに言ってもらえるような状態ではないんですよ。ここに書いた子供との対話も、心から接している言葉だけじゃなくて演技してる部分が大半なんです。子供に嫉妬してる「私」を抑えきれないことも多いですし。

「この人がお母さんだったらよかったのに」って、私もよく思います。今はこの感情をヒントにして、私の「お母さん」を育ててます。自分の中に作っちゃえばいいんだって。そうなると、あ、これもらお!って、うまく利用できるんですよ。

心の中でくらい理想のお母さんを求めてもいいんじゃないでしょうか。虫食い枯葉さんが欲しかったお母さんを自分のためにやってみませんか?
Posted by 蝉ころん at 2006年12月24日 15:03
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