2006年12月07日

学校でのエピソードといじめについての雑感

相変わらずワークに手が付きませんが・・・(^^;

昨日なつ草さんのブログ記事「折りかけの鶴」を読んで、コメントを書いていたら、またまた気付きがありました。

今に残る私自身の罪悪感やいたたまれなさの原因は、大部分が小学校生活で築かれたものだろうということに納得しました。もちろん家庭の影響もあるんですが、私にとっては学校や幼稚園といった、社会の集団生活の方が影響が大きかったようです。

そして、前回の記事で「一緒に変える友達が忘れ物をしたら?」という場面での私の行動も、このころに築かれた信念がそうさせていたんだ、と理解できました。こちらについてはまた加筆したいと思います。

さて、なつ草さんのブログで取り上げられていたエビソードは、「折り鶴を折りましょう」という課題にクラスの一人一人が取り組んでいる場面でした。

私が思い浮かんだイメージは、私ならきっと自分のものを完成させたら人の手伝いをしてあちこちよそ見をしまくっているだろう。いざ提出となったら、うまくできなかった子に完成作品を横取りされていて、私は先生に怒られ、誰も私を援護しないだろう、というものでした。

これ、普通にこんなこと言ったらものすごい被害妄想っぽいですよね。でも、似たようなことが、現実で何度もありました。カンニングの冤罪とか、物を隠されたりとか、誰かのいたずらの罪を着せられるなんてしょっちゅうでした。いつでも援護者はいませんでした。

そしてだんだんと、人生哲学が私の中に根付いていきました。

・自分の成果は人から隠しておかなければいけない、気に入られてはいけない、さもないと手柄を取り上げられる

・自分のテリトリーを離れてはいけない、誰かが手を出さないように常に見張っていなければいけない、大切なものがなくなるのは、見張りを怠った自分のせい

・他人は私を都合よく使う、利用価値のあるときだけ利用したら、あとはただの他人に戻る、頼られたからといって受け入れられたと勘違いした私が間抜けだ

・だからといって頼まれたことはしなくては悪者にされる、利用されていると諦めて利用されておけ

・大人・権力者は敵だと思え、誰も真実なんか見ていない、ただ都合のいい結論を弱いものに押し付けてくるだけだ、弱者に反論の自由はない

・一分の隙もなく正しくなくてはいけない、さもないと隙をついて悪者にされる、隙なくできないなら弁解せず甘んじて悪者になれ、どうせだれも言い訳など聞きはしない

こんな、他者不信のかたまりのような考えを私は小学生低学年の頃から既に持っていました。大人ならここまで思いつめなくても・・・ってなりますけど、子供の私には精一杯の身を守る術だったんですよね。周り中敵だらけで、誰が信用できる人間かわからないんですから。なかには悪意なく加担してしまっていた子もいたでしょうけど、それを判断できるほど大人じゃないですし。むしろ、よく自分を守ったなって思います。

早く大人になって、権力者に縛られない自分のテリトリーを築いてやる。

これが私の夢でした。これは子供の夢でしょうか。私にとっては野望でした。でも、これって、大人が、子供のために築いてやるはずの部分じゃないでしょうか。子供がのびのびと自分を出して楽しめる場所、ルール、仲間・・・・そんなものを一から自分で築けるようになるまで、私は自分であることを諦めていました。

これはちょうど、家で兄との差別的待遇にショックを受けていた時期とも重なります。私は家でも学校でも自分でいられる場所がなく、受け入れられる仲間もなく、ただ、自分で自分の世界を切り開くことだけを希望にして、大人になることだけを目指していた時期でした。

幸いにも、私は高校で自分の場所を得たので、社会、他人に対する壁は少しずつ壊すことができて、復讐的な意味合いは出てこなくなりましたが、小学校で得た人生哲学は、意識に上らずとも私を縛っていたんですね。

私は今でも、自分の行動を隠そうとするし、自分の場所やものを無断でいじられると理不尽なほどの怒りが沸くし、ものを頼まれるのが嫌いなくせに断れない、部外者は信用するのに身近な権力者ほど信用してない(信じなきゃ、と思っているけど内心で疑っている)、難しいことをやろうとするくせに少しでも失敗したら突然あっさりとあきらめてしまう・・・・・などなど、自分でもおかしいと思いつつ直せないところが沢山あります。

少しずつ見つけては、潰していくしかないんでしょうね。



昨日このことで泣いた時、この泣けてくるのはきっと私のインナーチャイルドなんだと思って、慰めようと試みたんです。今までは、「頑張ったね、私、えらいえらい」なんて言ってたんですけど、昨日は無意識に、「頑張ったね、あなたが頑張ったの、お母さん知ってるよ、もう頑張らなくていいよ」って、大人の私を「おかあさん」、子供の私を「あなた」と呼んでました。

そしたら、すっと涙がひいたんです。今までにはなかったことです。

チャイルドは、お母さんに慰めて欲しかったのかな?ずっとお母さんを求めていたのかな?なかなかうまくチャイルドと自分を切り離せなくて、癒せている実感がなかったんですけど、昨日は少し気持ちが軽くなった感じがしました。チャイルドの感情に共感はしても巻き込まれてはいけない、というのが難しかったんですけど、これでいいのかな?と思いました。子供をあやしているときと同じ感じなのかなって。

しばらく、チャイルドの「お母さん」でいてみようと思います。



------------------------------------

ちょっと話が変わりますが面倒くさいので一つの記事で失礼します。

最近、学校でのいじめ問題についてかなり話題に上るようになってきました。

私自身の経験からですが、小学校中学校の義務教育では、9年間ずっと、同じようなメンバーでの生活が続きます。クラス替えや中学入学があるにせよ、影響力を持つ人物にターゲットにされれば、その影響はずっと続きます。

しばらくいじめ被害に遭えば、そう簡単には「いじめられにくい性格」には変身できません。

やっぱり、この時期の学校生活は、家庭環境と同等くらい、人格形成に影響を与えるものです。いじめについて、最近見聞きするものでは、

いじめをしてはいけない、させてはいけない、ほうっておいてもいけない、

という、いじめの現象自体に着目している文章です。これではなくならないな、としか思えません。むしろ、表に出ない、より陰湿な形に変わっていくだけ。

いじめたい子は、なにをどう説いてもやるんです。それがストレスの発散法として身に付いている限り、やるんです。いじめる子はいじめられる子に責任転嫁してますから、自分を正当化してますから、いくら周りが「それはいけないこと」と教え込んでも、「でもあっちのほうがもっと悪い」と考えればいくらでもできるです。いじめられる子を援護すればするほど、いじめる子の怒りはパワーアップして、さらに破壊的になるだけです。

いじめる子といじめられる子は裏表だと思うんです。私はたまたまいじめられる側だったけど、いじめる側にまわる要素も持っていました。それが表に出なかっただけで。私をいじめていたある女の子は、転校前の学校ではいじめられていたと聞きます。どちらに転ぶかわからないんです。

いじめられる子を守るなら、いじめる子もケアしてほしい。原因を取り去ることは難しいだろうけど、せめて、いじめる子が、いじめることで逃していたストレスを、ぶつける場、発散する方法を探してあげて欲しい。大人本意の押しつけでなく、一人一人に合った方法を、探す手助けをしてあげて欲しい。

相手を思いやっていればいじめないんじゃない。思いやっていてもいじめてしまう心理をもっと見つめて欲しい。
posted by 蝉ころん at 12:13| Comment(0) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。