2010年10月18日

大人のともだち

子供の頃、近所の大人とよく仲良くなった。

私と仲良くなるような人はのんびり私の話を聞ける人なので、今考えてみれば昼日中に時間のある、正体不明の怪しい人が多かった。

そういう人と遊んでいると、それは当然、親は心配する。

そんな、よく知らない人と遊んじゃダメ。なにをされるかわかんないよ!

結構何回も遊んだあとだったからあまり納得はいかなかったけど、しぶしぶ受け入れた。

変わらず声をかけてくれる、何も悪いことをしていない相手に対して、冷たい態度をとることに罪悪感を持ったことを覚えている。




そのうち、近所の隠居してるおじいさんとか、素性のはっきりした人と仲良くなるようになった。

仲良くなってよく話をするようになると、母がどこからか情報を仕入れてきて、禁止する。

邪魔になるから話しかけちゃダメでしょ。

相手が怪しい人でなくても、そんなふうに言われておしまい。



なんですぐに取り上げるの?

私が見つけた私の友達なんだよ。

大人だってなんだって、私は友達と思ってた。

だって私を対等に扱ってくれたから。

でも、すぐお母さんが大人の事情を持ち込んできて、私は子供だからダメなんだって現実を突きつけられたんだ。

私に悪いことをしてくる人かどうかの判断もさせてもらえないんだって。

悪いことをしてこない人とでも仲良くなっちゃダメなんだって。




喜んでいるように見えても、私が子供だから喜んでいるようにしてくれているだけ。

真剣に話を聞いてくれているようでも、子供相手だから邪険にしないでくれているだけ。

本当は、邪魔だと、早く帰ってくれないかと思われている。




いやいや。

これって、母がそうなんでしょ。

近所で延々と長話した挙げ句、「全くあの人は話が長いんだから」とか。

「平気で子供の相手させて」とか。

言ってた。

押し付けられてただけだ。

私が邪険にされてたなんて、その人にしかわかんないじゃない。

だって私には、私と話している人たちは嬉しそうに見えたよ。

私を話すことを楽しみにしてくれているように見えたよ。

私と会えたことを喜んでくれているように感じたよ。

それは本当にいけないことだったの?

だってそれは私にとっても、すごくすごく大切なことだった。必要なことだった。

でも自分不信に変わった。



私と話したいと思ってるわけじゃない。

無理して相手してくれているだけ。

邪魔になっちゃいけない。

誰かに見られてもいけない。

そうやって自分から距離を置くようになった。

くそー。



みんな、私のこと好きだったよ!

本当に喜んでたよ!

孫に会えない埋め合わせだろうが、話し相手のいない寂しさだろうが、私に会えることを楽しみにしててくれてたよ!

毎日顔会わせてもほとんど時間がないあんたより、よっぽど話を聞いてくれたよ!

せめてそんなことくらい、自由にさせてほしかった。

そんなところにまで手を伸ばしてきて欲しくなかった。



それに、私にとっては、仲のいい大人というのはセーフティネットでもあった。

外に出ているといつどこでいじめに合うかわからなかった当時、近所にそういう大人がいてくれる安心感は大きかった。

でも私が仲のいい大人と話をしているということは、近所の人の目に留まり、母に伝わり、禁止される。

私がいじめられていても大人は誰も気にしないのに、私が大人と話しているとやめさせられる。

私は、いじめられっこから抜け出す手だてを塞がれた。

私が地域に自分の存在できる場所を作ることを阻止された。




自分の外聞が悪いからだけじゃん。

そんなの気にするんなら自分が私の話し相手になってればいいじゃん。

自分が軽く見ているような相手と長話や長電話ばっかりしてないでさ!




私から避ける必要なんてなかった。

もっと素直に受け取っててよかった。

笑顔の人の裏の感情なんて見えないものを予測する必要なんてなかった。

笑ってたら嬉しいんだでよかった。

楽しそうなら楽しいんだでよかった。

私がそう感じたんなら、私のことを対等に扱ってくれていると信じてよかった。

その人本人が嫌というまで、その人本人から避けられるまで、私は好かれているって信じててよかった。

それでよかったんだ。

posted by 蝉ころん at 00:46| Comment(0) | ころんちゃん覚え書き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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