泣くことを否定されていると身に付く、自分をごまかす方法。
否定されることを恐れて、泣くより強い表現で覆い隠す。
笑うことで、泣きたくなる感情を押さえ込んでいる。
だから、笑い方も妙に明るくて不自然。
私も子供の頃はそんな時期があった。
繰り返すうちに、そのうち泣く前から笑うようになっていくんだ。
そして悲しいってことさえも忘れていく。
最後には悲しい時でも笑っている人間が出来上がるんだろうな。
感情を否定されるのはとても辛いね。
感情は私の源なのにね。
ねじ曲げて、素直に表現できないって苦しいね。
まっすぐに表していけばいい。
私そのものを出していけばいい。
ごまかさなくても大丈夫。
最近、ひかるは泣き続けるようになってきた。
泣き止んだ後は、ぼーっと放心している。
泣き尽くせてるといいんだけど。
ひかるも少しずつ変わっている。
解き放って、進みたい方へ進んでいったらいい。
変わりたい方へ変わっていったらいい。
私はそれをしっかり見守ろう。
見守るのが辛い時は、自分を掘り起こそう。
押しつけはもうたくさんだね。
@>泣くことを否定されていると身に付く、自分をごまかす方法。
>そのうち泣く前から笑うようになっていくんだ。
そして悲しいってことさえも忘れていく。
A>感情を否定されるのはとても辛いね。
>感情は私の源なのにね。
ねじ曲げて、素直に表現できないって苦しいね。
同じ人の心なのに、@とAの間には大きな溝があるのですよね・・・。
Aの気持ちを持ち得なかった人は・・・
B身近な相手に対して、「おまえもどんなときでも泣かずに笑えよ・・悲しいことなんてないと思えよ」という封印の「暴力」を強いる人間になる。
・・・今となっては遠いひと、モラ元夫のことですけどね。いつも感情のないにこにこ顔だったなあ(いまでもそうかな)
なぜAにいけないんだろう・・
いや、逆にどういう人が蝉ころんさんのように(ときどきおじゃまするアッちゃんさんもそうですが)Aへ移行できるんだろう・・何が違うんだろう。
・・・と言う疑問は、いまもって私の頭のどこかにひそんでます。別に自分とはもう関係ないことなんだけれど。
苦しさは苦しさとしてしっかり受け止めることは、とりもなおさず自分(自分の正直な感情なんだから)を大事に出来るってことなんでしょうね。
そう言う意味で自分を大事に出来ないままの人って
実はこわい人なんですね。
ああ、書きながら誰か似たような人がいたような・・・と思ったらなつ草さんの同居人さんでしたね。
気付く人、気付かない人の違い・・・あの頃もよく話題にしていましたよね。
以前記事に書いたように私のきっかけはつまるところ世間体ですから利己的なものですね。こちらの道へ進んでみたら、結果としてこうなってきただけで、はじめの一歩は本当にハラッサー的な思考からです。
きっと同居人さんもそこに気付くことのメリットがデメリットより大きいと本人の価値観で思えば、動くんでしょうけど・・・
正直、今はもう興味はあまりありません。すみませんけど。(^^;
元夫のあれこれについても「こういうことだったのか」と思うことはあっても、「なんで?」とはもう思わなくなりました。
彼らの問題は彼らが扱えばいいので、私は私の問題に取り組み続けますよ。
うふふ、以前に周りからさんざん言われてたこと、蝉ころんさんの口から聞くと、なんだか新鮮です。
やはり、目の前にいるのといないのと・・の違いでしょうね。
ただ、私は、「ふうん、これも人間の一つの姿か・・おもしろいもんだな」とも観察する興味はあります。
もともと、人間、好きなんでしょうね。・・ってか、
物好き。(^_^;)
そう言う意味で、蝉ころんさんの「問題」にも、よそ事ながらついつい目がいってしまうのかも。
当時は自分の問題に気付くために必要あってのことでしたが、自分の中に問題が見えるようになったら他の人のモラ思考を探る必要はなくなったし、それに今は、よそ様のプライベートという風にも感じるので、親しいわけでもない人のことは余計に触れなくていいや、と。
まあ、答は自分の中にあった、て感じです。