2007年07月29日

悩む権利

なんだかすっかり週一更新になってますが。(^^;

最近子供と関わっていて思うことです。

すぐ答を渡してしまうなあって。

もっと悩んでいいんじゃないか。もっと挫折していいんじゃないか。最初はそのくらいに思ってました。

でも今は、もっと悩む権利がある。もっと挫折してのたうち回る権利がある。もっと苦しむ権利がある。

そんなふうに思うんです。

悩んで苦しんで挫折して、それでようやく自分なりの答を見つける。そういうことを、させてやれてるかなって。子供たちの答を見つける権利を妨げてないかって。

親になっちゃうと、ついつい苦しませたくない、って気持ちが先に立って、簡単に答を渡してしまうけど、そうするのは本当に子供のためになってるのかな?と思います。

もちろん場面にも、問題にもよりますが。

私自身、こうして夫との関係をずっと振り返って悩み続けてきて、いろんな人にヒントを貰いながら答を見つけてきて、結局は誰かが言っていたことと同じ結論だったってことばかりですが。

だからって、じゃあ最初からその人の話を受け入れてればよかったか、っていうとそうではない、やっぱり自分なりの道程を通って得た答だからこそ、心から納得もできたんだと思ってます。

答だけもらっても、ダメなんですよね。納得いかないんです。

それを、子供相手だとポンポンやってしまいます。こうやったら早いんだから、つべこべ言ってないでさっさとしてー!ってのが本音ですが。(^^;

でもやっぱり子供たちも納得いってないんですよね。そのうち自分で同じ答に辿り着いて、初めて知ったかのように報告してくることもありますし。全く身に付いてなかったんだってのがわかります。

自分で頑張って得たことって、人にもらったことよりインパクトがあるようですね。



そうして考えてみると、今の社会って、社会に出るまでほとんどの場面で答が用意されていることばかり。

学校だって、授業で考えて身につけなくても教科書を見れば答が出てるし、電化製品には取扱説明書とともに細かい注意書き。おもちゃにだって説明書が付いてますね。そして危ないところは全部子供が危険を感じるより前からとっくに立ち入り禁止だし。遊びに行くにも、そうそう1人で小さい子供を外に出せるような社会じゃなくなってきましたから、親が付いていくでしょう?そうするとやっぱり親は口うるさくしちゃいますから。

水泳の授業で、水に慣れる体験よりも先に泳ぎ方という答を教わるような感じ。

大人が余裕がないんですよね。

これだけは出来るようにさせなければいけない。
いついつまでに終わらせなければいけない。
ここでケガされるわけにはいかない。
悲しい思いをさせてはいけない。

先を考え過ぎるんでしょうか。ここでこうなったらこうなってしまう、って、見えちゃうから手を出さずにいられなくなっちゃうんですね。

でも、そこで選んだ結果を体験するっていうのも権利の一つなんじゃあないのかって気がするんです。苦しくても、悲しくても、怒りが沸いても、それを体験するのはとても貴重なことなんだって。

私は母が変に気をきかせたおかげでおばあちゃんのお葬式に出られなかったんですが、それはかなりショックなものでした。区切りがつけられない、悲しむこともできない、やり場のない感じ。

そういう、なにかモヤモヤしたものをたくさん残させてしまってる気がします。

もっと余裕のある大人になりたいなあ。先が見えているんだから、その予測をうまくつかって自分の対応を考えておくとか、そういうふうに使えないかしら。

後ろには私って母親が控えてるんだよ。いくらでも悩んで考えてていいんだよ。どうしようもなくなったら頼ってきたらいいよ。ちゃんとお母さんはここにいるよ。

そういう姿勢で見守れたらいいなあ・・・。

難しいことではありますが。

一歩引いて全体を見ながら、本当に子供が答を求めているのか?って、せめてそのことは考えられたらいいんじゃないかな、と思うのです。

余裕のある時に少しずつですね。
posted by 蝉ころん at 00:46| Comment(5) | 子育て関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月22日

興味を示すこと

前回の記事で、夫が自分以外の人間にまるで興味がなく、自分の感じているものだけの世界に生きているらしい、ということを書いた。

この、他の人間に興味がないという部分、実は私も似たようなところがある。

それには二つの側面があることに気が付いた。興味を持っていることを示すことに対する恐怖と、興味を持つ余裕がない状態。



一つ目は、実は興味を持っているのに外から見ると興味がないように見えるだろうという場面のこと。

私は、人に興味を示すのを躊躇してしまうところがあって、これも、学校生活でいじめを受けていたことがかなり影響しているように思う。

私は、いじめっ子たちとなんとかして仲良くなりたいと思っていた。いじめっ子たちには、たいてい取り巻きがいて、いつも賑やかにしていた。それが私は羨ましくて、その中に入りたかった。それで私は、いじめっ子に対して興味を示し、当然のことながら拒絶されたり、人格否定されたり、興味を示したことを理由にさらなるいじめを受けた。

もともと興味の示し方がぶしつけだったりということもあるだろうけど、やはり私は使う相手を間違えていたし、そこで返ってきた反応を重くとり過ぎた。

「人に興味を示すのはいけないこと」

そんな風に自分の中にルールを作り上げてしまった。

今でも縛られていることを感じる。人と関わっていて、ふと聞いてみたいことが浮かんでも、「これは聞いていいことか?踏み込み過ぎじゃないか?失礼じゃないか?嫌がられないか?だいたいどう聞けばいいんだ?・・・」と葛藤しているうちにタイミングは過ぎていく。

そして、別の時に、私が思っていたことを他の誰かがためらいなくストレートに聞いて答を得たりしている場面に出くわすと、「聞いていいことだったんだ!そんなに単刀直入に聞いていいものなんだ!」とびっくりするということを繰り返している。

ただ少し以前より進歩していることは、以前なら「この人たちはそれが許される仲だから。私には許されていない」と、いつまでも踏み込めないでいたところを、そのうち私もそういう仲になれるだろうとか、そろそろ聞けそうな関係になれただろうとか、思うようになってきて、相手によっては実際に聞いてみることもできるようになってきたこと。

最近はさらに、以前ならそんなに仲良くないと判断していた相手にも、興味を示せるようになってきている。興味を示すことが、好意を持っている表れでもあるって思えるようになってきたから。それから、好意を受ける側だけでなくて、好意を発する側になってもいいことがわかってきたから。特に今よく付き合いのある主婦層は、人から好意を向けられることに飢えている人が多いようにも思う。私と同じように。

好意を出して、受け入れてくれる人にだけ受け入れてもらえばいい。相手が受け入れられないような状態だったり、受け入れることを拒絶しているような人なら、それは一歩引いておけばいい。

たぶん、すごく当たり前のことなんだろうと思うけど、こういうことがやっとわかってきた。

今はまだ考えて考えてそれから実行、と時間がかかっているけど、実践していれば自然にできるくらいに身に付くだろうと思っている。やっと立てるようになった赤ん坊が、そのうち自然に移動手段として歩くようになるみたいに。



もう一つは、私自身が人に興味を持てないほどいっぱいいっぱいなときのこと。

何かしなければいけないことがあって頭が一杯だったり、考え事をしていたり、集中して何かに取り組んでいるとき、時間がなくて焦っているときなんか、まったく周りの人のことを考えていない瞬間がある。

これって誰にでもあることだと思うけど、まるっきり無視になっているのは、やっぱりモラ的な行動だなと思う。

1人で没頭していてそれで構わない時はいいけど、相手が私に意識を向けて欲しいと思っている時なら、まったく無視はやっぱりまずい。興味がない、あんたなんかいなくていい、というシグナルになってしまう。

でもこちらが大変なのは確かなんだから、こういうときは全部を相手に向けることはなくて、少しだけ意識を分ければいいんだよね。ただ少し話を聞いて、自分の状況を説明して、意識を向けることができないことを詫びる。それでいいはず。そしてちゃんと後でもう一度時間を取ればいいんだよね。これは拒絶じゃないんだ。

これは特に子供に対してうまくできてないところがあって、かなり訓練がいるなと思っている。ただ子供って、まだ我慢が出来ないから、「ちょっと待って」と言っても「何分だけ待って」と言っても待てないし、本当に忙しい時に何度も何度も来られると「いいかげんにして〜!」ってなっちゃうのは仕方ない気もするけど・・・。



なんにしろ、もう少し自分にゆとりを持ちたいな、と思う。そうしたら、そのゆとりの部分で人に興味も持てそうだし、興味がないわけじゃないことを示していけるんじゃないかな。
posted by 蝉ころん at 09:40| Comment(3) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月14日

狭い世界

夫は昔から、私の話をあまり聞きませんでした。

話をして盛り上がることと言えば、同時に体験したことが話題に上がっている時か、同じような体験の話、共通の友人の話。あとは、夫だけが体験したことの話をただ肯定して聞いているだけのとき。

私だけが体験したことを話しても、視線があったことはないし、いつも何かをしながら気のない相づちが返ってくるだけでした。

そのうちに思うようになったのは、私の体験なんかつまらないことだから仕方ないな、という自己卑下。

そして私は夫に体験を話さなくなっていきました。

それでも夫はなにも変わらなかったので、やっぱり私の体験は夫には不要だったんだな、と思っていました。そしてますます話さなくなっていきました。



ちょっと前に思ったことは、この人は私に興味がなかったんだな、ということ。

私が何を体験していようが、楽しんできたんであろうが、つまらなかったんであろうが、そんなことが問題なんじゃなくて、夫にとって私自体がつまらないものだったんだな、と。

実際、夫が私に望んでいたのは、家政婦、娼婦、チャイルドシッター、妻、という役割だけ。そこに「私」という個性はいらなかったといっていいです。

だから私がその役割を満足に果たせなくなったら、あきらかに行動がおかしかったはずの私の心配よりなにより、家をまわす機能の回復だけにやっきになっていました。そこにあるはずの「家庭」という箱さえちゃんとしていれば私なんてどうでもよかったんでしょう。

最後に少しでも私の心の回復に援助しようとしていたのさえも、それが回復すれば家が回るからであって、私の心配などこれっぽっちもしていません。それが証拠に、私が心は回復し出しているけど実務能力まで回復するにはさらに時間がかかると言った次の週に離婚話です。この人は本当に私の心はどうでもよかったんだなと。



そして最近気付いたこと。夫は、自分が今まさに感じている世界以外にまったく興味がないということ。

それはなにも私に限ったことでなくて、今まさに一緒に遊んでいるはずの子供に対しても、子供が自分の世界に集中していて夫との接点がなくなれば一瞬で夫の世界から外されるんです。

今パソコンの情報に集中していれば、そのまわりで起きている全てのことが夫の世界から抹消されます。パソコンから目を離して意識を家族に向けた瞬間に、彼の世界に家族が登場するんです。

新聞に集中したい時にテレビの音がうるさければ、その時見ている周りの人たちはすでに夫の世界にはいませんから、考慮する瞬間もなくテレビを消せます。そこで誰かが夫に対して苦情を言えば、その声が聞こえた瞬間に発言者が夫の世界に登場するのです。

そんな世界に、彼は生きているように思います。



彼から子供たちに興味を示す時は、子供たちが楽しそうにしている時ではなく、自分が子供たちに笑顔を見せて欲しいとき、それだけ。しかもそれは、子供たちが自ら楽しんでいるとか私と楽しく遊んでいる場面ではなく、夫が楽しませた時の笑顔に限ります。あくまで自分の周りで自分が関わって起きている場面でなければいけないんです。

子供たちは、泣いていても無理矢理笑わせられて、泣き止ませられます。夫は泣かれているのがいやだから、なぜ泣いているのかよりもまず笑わせようとします。子供の気持ちは見ていません。

気持ちは見えないものだから。

笑っている顔が見れたら、それは楽しいからのはずだから。俺があやしたら笑った、俺があやしたら泣き止んだ、それでいい。

そして私のことは、見える範囲に入れる意味がないから見ません。私からは何も得るものがないからです。私を見る時は、家が回っていない問題を解決させるために視界に入れるに過ぎないんです。



表に見えているものしか見ない。自分に接触してくる人間しか世界として意味がない。意味のない世界は見ない。見たい世界がない時は、寝てしまえば、世界を抹殺できる。



こんなふうに書くと言い過ぎのような気もしますけど。この人は実はものすごく狭い世界に生きているんじゃないだろうか。そんなふうに感じるんです。

私はこんな世界に登場したくないです。
posted by 蝉ころん at 23:55| Comment(12) | 夫を読み解く | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月06日

PTAで思ったこと

子供のPTAの役員に当たっていて、いろいろと用事があって集まったりすることがあります。

その仕事に対しての愚痴がすごく多くて話が進まないのが困りもの。やっちゃえば終わるのに〜せめて作業しながらにして〜説明を先にして〜って感じです。

話を聞いていると、責任を感じなくていいところまで責任を感じて、「なんでこんなことまで責任を負わなきゃいけないの?」って怒ってるんです。

担当外のことはそんなに気に病まなくていいんじゃないって思うんだけど、いや、そんなことないどうせまたクレームが来るし・・・って。

で、私もちょっと進歩したかな、と。責任範囲が見えるようになってるなって。

私も同じようなクレーム受けてたらしいんですよ。実際直接話したんですけどね。私が聞いててクレームと思わなかったんですよ。ただ困ってる現状を訴えてるだけ、とか、どういう経緯でこうなったか知りたいだけ、とか。

これが責められてるように聞こえちゃうんだな〜と。

それって、モラに遭ってるときの状態に似てる。そして、それを相手に叩き返そうとする様はモラにも似てる。私も2年前だったらそんなふうに感じてたかもしれないです。それで、罪悪感を受け止めきれないと、権限を振りかざして相手にぶつけちゃう。

これって辛いよね。どっちも。文句言ってるわけじゃないのに、文句と思われるのも辛いし、きちんと仕事してるのに、まだ何か言われる!って隅から隅まで非がないようにやり遂げて、それでもなにか不意をつかれやしないかと身構えてるのも辛い。

なんとかならないかなっと思っても、この人たちの抱えてるものは家庭にあるようなのでどうしようもないんですよね。流されない程度に愚痴を聞くくらいしようがないかって感じです。



この状態、私が子供といる時の感じにも似てるな〜とふと思いました。

子供がただ感情を出しているだけのことを、責められたように感じてないか?
子供ができないことをできることと決めつけて、子供を追いつめてないか?
子供に任せればいいことを、勝手に責任を感じて重く受け止め過ぎていないか?

だいぶ大人同士の関係での境界線ははっきり引けるようになってきたけど、子供との境界線はまだまだだな〜とちょっと反省しました。まだぶつけたくなる何かが私の中に潜んでますね。生活が落ち着いたらまた探ってみます。

それに子供って成長するから、境界線も流動的なんですよね。きっと大人同士より上級テクが必要なんだわ〜。

がんばろっと。
posted by 蝉ころん at 13:33| Comment(8) | 子育て関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月04日

ご近所の予想外の反応

最近、近所の友達に少しずつ現状を話し始めています。

もう離婚するんだと伝えた時、「もうどうしようもないの?」とか「もうちょっと頑張ってみたら」なんていう言葉が返ってくるのを覚悟していたのに、予想外にみんな「頑張ってね」とか「何かあったら言ってね」という、優しい言葉ばかりで、ちょっと拍子抜けしています。

この人たち、実は私が苦しんでいて相談した時には、「男の人ってそんなものよ」とか「うちなんかもっとひどい」なんていう言葉をくれて、正直私は自分を追い込む結果になってしまってたんです。だから今回も覚悟してたんですけどね。

小麦さんのブログにコメントで書かせてもらったこともあるんですけど、二次被害を誘う言葉って、発する人が自分を納得させている言葉なんだなあと、改めて思いました。私も頑張ってるから、一緒に頑張ろうよって。みんなこんなもんなんだよ。だから頑張ろうよって。

この人たちも、モラと暮らしています。

ずっとそうじゃないかな?って雰囲気は見えていましたけど、離婚することを伝えた時の、一様に涙を流す様子と、羨ましいという意味のこもった言葉で、確信しました。

やっぱりみんな、うすうす現状から逃げ出したい、って思う気持ちはあるんですね。でもそれを現実的じゃないと思っているから、自分で自分を縛り付けているしかないんですよね・・・。本当に苦しい状況ですよね。

どうやらうちの近所、モラ率高いみたい。そういう環境だとモラの常識がまかり通っちゃうから、よけいに被害者は表に出られないようです。

私の決断を受け入れてくれて、応援してもらえるのは嬉しいけど、親しい人が苦しんでいるのは悲しいです。

モラについて教えてあげたい気持ちがあっても、本人が疑問を持つようになってからでないと、受け入れにくいことだってのもよくわかっているので、今はただ、私になら話しても大丈夫という安心感だけ持っておいてもらえたら、と思っています。

話せる相手がいるだけでずいぶん違うのは私自身も多いに実感したことですしね。それだけで共存の負担が軽くなることもあるでしょうし。

まずは私自身が安定しないと、相談もしにくいでしょうから、足下を固めるのが先決ですが。

とにかく焦らず、少しずつ着実に頑張ります。
posted by 蝉ころん at 13:58| Comment(2) | 近況報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月02日

気持ちの変化

とうとう7月ですね。なんだか本当に、月日の経つのが早いです。

夫がいる時間はものすご〜く長いのにね。それだけ自分の時間がないことの証明かな。

あまりリアルタイムに出来事を書くと特定されかねないので詳細は書きませんが、離婚話が決まってからというもの、夫がいろいろと幻滅させてくれる言動連発で、どんどん心が離れていってます。

もともとは、子供たちの父親のことを悪く思いたくなかったから、さっぱりと離婚したかったんですけどね。のちのち、面接交渉とかで顔を合わせることもあるだろうしと。

でももうそんなのどうでもいいか、と思うまでになりました。

考えてみれば、お互いに対して好印象を残したままで別れることになって、穏やかに子供たちも同席しての面接交渉なんて、子供が混乱するだけですね。こんなにうまくいくんならまたよりを戻して!とか変に希望を持つことになりかねませんし。

ここは、「さっぱり」より「きっぱり」を目指そうと、思います。

それにしてもいろいろと情けない男です・・・。この男を選んだ自分を猛反省してしまいますよ。

子供たちも、いつか自分たちで父親のおかしさに気付くんじゃないかなって思います。現時点で親の私や夫よりいい人間関係作れてますし、バランスのいい目を養えるでしょう。きっと大丈夫。

うん。なんだかだいぶ大丈夫って思えることが増えてきました。マイナス面をたくさんたくさん考えて、ようやく覚悟ができてきたってところでしょうか。

あとは出たとこ勝負ですね〜。
posted by 蝉ころん at 13:25| Comment(0) | 近況報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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