2007年05月17日

受け入れる・諦める

私自身が子供に向けてしまう激情を分析するようになって、見えてきたこと。

「当たり前のこと」「みんなしていること」「常識だから」「当然」

こんな言葉で納得したつもりになっていたことが、すべて子供たちに向いているということ。

これらの言葉は、自分自身だけで完結できる説明にはなっていないということです。平等だと思うからこそ我慢しているだけで、その平等が幻だったと気付いたとたん、溢れ出すんだと。

私と同じようにモラハラの被害に遭っている人が、過去にも同じようないじめ体験を持っていて、生育環境もむしろ私より過酷で、それでもご自身は加害者にはなっていない、という方がたくさんいらっしゃいます。なぜ私は加害者側にも身を置いているんだろうという疑問がずっとありました。

加害者側にいってしまう人と、いかないでいられる人との違い・・・。

この、押し付けられた役割への納得の仕方に一つ、ヒントがあるかもしれないと思っています。

私はずっと、みんなしていることだから、いずれ私にも順番が回ってくるから、ということで、ただ我慢をしていました。諦めていなかったんです。ずっと不満を持っています。でもみんな我慢をしているんだから、私も我慢をしようと。それだけでした。

加害者になってしまう人は、この不満を持っている人だと思うんです。本当は嫌だけど、「当然のこと」だからやってやってる、という。だから、「当然のことじゃない」人がいると、怒りが向くんじゃないでしょうか。「当然のこと」だからお前も従うべきだと。ずっと信じて従ってきたことは「当然のこと」であり続けてくれないと許せないんです。

加害者側にいかない人は、なんとなく、「当然のこと」という納得の仕方をしていない気がします。みんながそうだから、ではなく、「私はそういう人」という風に思っている感じがするんです。自分の特性として、受け入れている、だから、周りの人と違っても、いつでも「私はそういう人」で矛盾が出てこないから、怒りも出てこないのかな、と。

兄弟と扱いに大きな差があるとして、それにたいして「長女だからこんなもの」と思っているのと、「私はこういう役割」と思っているのでは、かなり違うと思うんです。同じ長女なのになんであの子はいいの?なんて怒りが出るか出ないか。

私の家はモラハラ家庭でしたけど、そのことに関しては、他の幸せな家庭に育った人たちに対して腹が立つなんてことはありません。自分の家が異常だという自覚はあったし、「うちはこういう家庭」として納得していたからです。「みんなこんなもの」とは思っていなかったから。だから、仕方ないって、諦められていたんです。うらやましい気持ちはありましたけど、それは諦めているからこそ出てくる自然な感情ですよね。

どうでしょうね。

自分がはめ込まれた役割に対して、自分が受けられなかった愛情に対して、本当に受け入れられているのか、本当に諦められているのか。

そんなところに、分岐点があるような気がします。



私も過去の記憶を一つ一つ発掘して、丁寧に一つずつ受け入れて、諦めていくことができたら、子供に向ける激情も減っていくのかもしれません。
posted by 蝉ころん at 11:10| Comment(5) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。