2007年02月28日

久しぶりのチャイルド

最近、私自身に攻撃性が出てきています。

今になって身に付いたものでなく、前から持っていたものが戻ってきたんです。懐かしい感覚でもあるので。また消化しないといけないことが湧いてきました。久しぶりに子供の私が顔を出してきたみたい。

最近、夫のことで心の整理がついたと思っていたら、子供たちに対して当たりがキツくなってきました。落ち着いてきたはずなのになんで?って感じでしたけど、子供の私が原因だったみたいです。

未消化の怒りがまた出てきたようです。

私の怒りの根っこは、魔の3歳児あたりにあるのかもしれません。上の子に対してキツくなってしまったのもこのころ。今は下の子が差しかかっています。子供の自己主張をうまく受け止められないのは、私がうまく受け止めてもらっていなかったからかもしれない。

私もきっと自己主張いっぱいしたかったんだなあって思います。

母は父と兄の自己主張で手一杯でした。私が泣いたら、兄が叱られるだけで私の話は聞いてもらえませんでした。私が泣かなければそれでよかったのかな。私が覚えている小さいころの母は、ほとんど後ろ姿です。後ろ姿に話しかけて、後ろ姿のまま返事をされていた。目止めを会わせて会話した記憶がないんです。私は家族の生活のついでに成長していました。

いつか余裕ができて、私に目を向けてくれる時が来るのをずっと待ってたのに。そんな時は来ないまま、私は大人になって、母は私を頼るようになっていました。私が甘えることができないまま、甘えられるようになっていました。

子供の私は、今の、本物の私に嫉妬しています。私だってそんなふうにやさしくして欲しかった、目を合わせて会話して欲しかった。一緒に遊んで欲しかった。私はずっと我慢していたのに、手に入らないものだと思っていたのに、この子たちだけずるい!って。私だって、私だって、って言ってる。

私のチャイルドはかなり私の意識の浅いところにいて、ときどき表面に出てくることがあるみたいです。こういうとき、私はモラ化しているかもしれません・・・。子供に対してキツく当たってしまうとき、たぶん、同じ年頃の子供に戻ってしまっている気がします。私はちゃんと出来てたのに、あんたちもやりなよ!って。

私はきっと無理して頑張って能力以上のことをしてたんだ。まだそんな能力がない頃に、自分のことに責任を負って生活していたんだ。誰にも頑張っていることを気付いてもらえないまま、出来るんだから、やって当たり前と言われて。出来るくせにやらないと言われて。それなのに、まわりでは頑張っていない子が褒められている。なんで?なんで?私が頑張ってないって言うなら、あの子なんか全然頑張ってないじゃない!

平等に扱われていない、公平に見てもらえていない、私だけ損してる。そんな不満がずっと残っています。

出来なくてよかったんだよ。まだ完璧になんて出来なくて、それでよかったんだよ。もっと年相応に褒めて欲しかったよねえ。無理して頑張って、偉かったよね。



最近あまりにも調子が良くなってきていたので、子供の私のことを意識しなくなってきてました。だいぶ癒しも終わったのかな?って思ってました。でも、今日書いてみたら涙が出る出る。久しぶりに泣きました。まだまだ癒せてないことが隠れてそうだし、癒したつもりになってることも、また同じことで暴れだすこともありそうです。

自分のことも、まだ先は長いな、と思いました。こっちも忘れないようにしないと。
posted by 蝉ころん at 12:21| Comment(2) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月25日

どちらの問題か

久々にモラっぽい行動がありました。

行楽地で帰り際、私が携帯をなくしたことに気付いたので、落とし物として届いていないか、確認にいくことにしたときのことです。

子供も疲れているし、夫と子供たちに先に車に戻っておいてもらい、私は心当たりの場所の係の人に聞きにいきました。

ある程度探してもらってなかったとき、ふと、「車にあるかもしれない」と気付いたけど、確認しようにも携帯がないので夫とも連絡が取れないし、まあ、紛失記録を残しておいてもらって害はあるまい(係の人に手間はかけるけれども)、と思って、とにかく手続きだけはすませました。

さて車に戻ろうと、急いで駆け出したとたん、突然後ろから肩を叩かれ、振り向くと夫が真っ赤な顔をして携帯を突きつけてきました。そして私の言葉も聞かず、どすどすと不機嫌丸出しで先をずんずん歩いていきます。

ああ、このパターンもあったと。



夫に縛られていたころの私なら、焦って追いかけて、謝り倒していたでしょう。そして、いかに私が間抜けで冷静な判断が下せないどうしようもない人間かということを滔々と説教されていたでしょう。私は反論もできず、なぜ車に忘れたと言う可能性を思いつかなかったのか、と自分を責めていたことと思います。夫が怒るのは当然のことだと。

さらに昔の、夫には縛られてはいないけれど攻撃性の強かったころの私なら、勝手に追いかけてきて、なに勝手に怒ってるんだ、走って追いかけてきて不機嫌になるくらいなら何もせずに放っておけ、と怒鳴っていたでしょう。夫が怒るのは筋違いだと。そして当然のように、せっかく人が親切でやってやったことにいちゃもんを付けるとはどういう神経だ、と、人間性を否定されていたことでしょう。

どちらにしても、説教されることには変わりなく、少しずつ自分に疑問を持ったり自分を責めたりする思考パターンが作り上げられるカラクリだったんだなあとわかります。



昨日の私は、冷静でした。子供がその場にいなかったおかげもあると思います。夫が怒る気持ちはわからなくもない。でも、この夫の怒りは、夫の問題であって、私の問題ではない、と思えました。それで、怒りでわなわなしている夫の後ろ姿を見ながら、状況分析していました。

車に子供たちを待たせておいて追いかけるほど、逼迫した状況ではありませんでした。私は大人で、この問題に対して自分で対処できるくらいの処理能力はあります。もし立場が逆なら、私は、車で子供たちと遊びながら待ったでしょう。そして帰ってきた夫に、「車にあったよ〜」と気楽に伝えてみんなで笑っておしまい、それですんだだろうなと思います。たぶん夫はそんな状況でもプリプリ怒ってるだろうとは思いますが。

夫は、車に戻って私の携帯を見つけたとたん、テンパってしまったんだろうな、と思いました。なくした、落とした、と私が言った携帯が、そこにあった。勘違いしている私に知らせなければいけない、と思ってしまったら、動かずにはいられなかったんでしょう。そして、走って追いかけながら、なんでこんなことをしなければいけないんだ、あいつが車に忘れていって、それを気付きもせずにいるからだ、なんて私に責任転嫁をしていたんだろうと思います。

それは、あなたの問題です。

私が車に携帯を忘れていって、それを敷地内で落としたと勘違いして、家族を待たせたり、係の人の手を煩わせているのは、たしかに私自身の責任。

でも、私が車に戻ったときに、「車にあったよ」と言えばいいことを、わざわざ走って追いかけて、疲れたとか、むかつくとか、そういう感情は、あなたの責任です。

私はそこまで責任を取る義務はない。

だからといってね、待たせたことを悪かったとは思うし、走ってまであったことを知らせてくれようとしたことは、嬉しい気持ちもあるわけです。

じゃあ「ごめんね」とか「ありがとう」とか言えばいいんでしょうか?普通の人、たとえば、本当に親切から走って追いかけてきて、笑って「車にあったよ〜」なんて言ってくれる人になら、言えます。むしろ言いたいです。

でも夫は、そういう人じゃないです。待たせたことだけのつもりにせよ、一言でも謝れば夫が感じている不快感全ての責任を私が負ったことにされてしまうし、お礼を言えば、自分で判断して走って追いかけたにもかかわらずそれで生じた不快を私に押し付ける行為、にまで承認を与えたことになってしまいます。

色々考えた結果、「なかったことにしてあげる」という選択をしました。

承認を与えられる行為ではなかったこと。こちらが全ての責任を負うわけにはいかないこと。そして、そのことについて私の考えを冷静に伝えたとしても、夫は議論に持ち込んでくるだけだし、それではどのみち理解はしてもらえず、私がダメージを受けるだけ、と判断してのことです。

人として、イヤ〜〜な対応です。それはわかってます。でもこれが最善だったと確信しています。そういう相手だから、しかたないです。



あとからの様子を見るに、夫自身もなんとなく「しなくていいことをしてしまった」ように感じているふうがありました。たぶん夫は、私が勘違いで夫を待たせたことに猛烈な怒りを感じて、私の過失を目の前に突きつけずにはいられなくなったんでしょう。ふくれあがった怒りを正当化するためにわざわざ追いかけてやったという事実まで付け足さなければ気がすまなかったんでしょう。

夫が私を分離できていないから、我がことの恥のように感じていたたまれなかったんだろうな、と思います。

相手が他人だったら、きっと夫は待っているだろうと思います。「ほっとけ」って。それか、親しい友人なら、追いかけていっても笑って渡せると思います。「バカだなぁ」って。どちらも、自分の問題としてとらえていないからできることなんですね。

今でもまだ、夫は私に家族の役をさせたいんだな、と、思いました。



ここまでの分析も、共存する意識があったら辛かったかもしれません。心を離しているからこそ、冷静でいられたのかも。解決しようとしていないから。ただ事実を見ようとしているだけだから。

昨日の私は、自分を我慢させずにいられたと思います。夫の挑発に乗らず、議論になることを防げました。新しいチャイルドをつくらずに済んだと思います。
posted by 蝉ころん at 17:15| Comment(4) | 近況報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月22日

熟してきた?

最近、カウンセラー系の方のブログなどを読んでいると、「前を向いて、離れることを目指しましょう」みたいなメッセージが心に残り、「なんだか私に向けて書いてくれているみたいだなあ」という気持ちになります。

私に向けて、なんてことは、まあ普通に考えてあり得ないですけど、広義には私(のような人)に向けても書かれているんだろうと思います。

でも、今までもずっと、繰り返し、これらの方たちは、こういったメッセージを発信し続けてらっしゃいますし、最近になって「私に書いてくれてるみたい」と思うのは、私の方に準備ができてきたからなんだろうと思うんです。

今までも、巷に溢れている情報に、なぜかその時心に残ったおかげで気が付いた、ということが度々ありました。タイミングよくその言葉に出会えた幸運を思ったりしました。

確かに幸運もあったかもしれません。でも、そのタイミングだからこそ、私はそのキーワードに反応することができたんだと思います。

今回も、たぶんそうなんだと思います。

「離れなきゃいけないから」
「離れるのがベストだから」

そんな気持ちじゃなくなってきています。私が「離れたいから」、離れたい。離れたいからそのための方策を練る。そんな段階にさしかかってきた気がします。

だから、それを後押ししてくれるようなメッセージに心が留まるんだろうと思うんです。



いじめに真っ向から立ち向かうのも正攻法だけど、かなわないと知ったら、逃げるのだって正攻法。

今は、調停、裁判のことを(漠然とですが)考えています。

調停、裁判になる可能性があると言うことは、社会的なジャッジが入ると言うこと。それは、私にとって諸刃の剣です。

親権のことです。

夫は、世間的に見たらこれといった欠点のない父親で、むしろ私の方が母親として不利な点が多々あります。これは、悲観的でなく、冷静に判断して世間的にはそう見られてもしかたないだろうということです。

だからこそ、このあたりをどういうふうに進めていくべきか・・・。駆け引きや戦略が必要になってくるだろうなあと思っています。戦うことになってしまうのは不本意だけど、そうなってしまうことが目に見えている限り、本気で準備しようと思います。相手は手強いし、油断は禁物。

もちろん、自分の精神状態と相談しながら、ですけどね。
posted by 蝉ころん at 15:42| Comment(2) | 今の私 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月20日

今思うこと

コメントの返事が遅れていてすみませんが、先にこちらを書かせてもらいます。なかなか、勢いがないと書けないので。(^^;



気付かないうちに、ブログを開設した日を過ぎていました。この一年間、ブログを続けて、自分のことを振り返り、夫のことを分析してました。

自分のことを考えた時間も長かったけど、夫のことを考えた時間も長かった。

夫のことを軽く見ようとしたり、夫の被害者としての一面を考えたりしてきたけど、夫のことを考える時間にしていたことは、小さいころからの習慣の延長だったと思います。

「逃げられない今の状況」を少しでも楽に乗り切るために、自分を騙す、そういう行為だったと思うんです。

先週末、夫を「ボクちゃん」と呼ぶことでダメージを減らせるか、と考えました。でも、心の緊張は同じでした。たとえ夫の本質がただのおこちゃまだとしても、夫は実際には大人の体を持ち、大人の知識を持ち、大人として稼ぎを得ている、社会的には大人と認められる人物なことには変わりがなく、夫自身が大人の自分に自信を持っている限り、私がその夫から傷つけられて、そこから逃れられない状況に苦しんでいる、ということには変わりはないんだと言うことが、あらためてわかりました。

そして私が夫を「ボクちゃん」と呼び、夫からの影響を過小評価することは、自分を追いつめることに他ならないんです。

私の弱点は、ついつい相手の立場に立ってしまうこと。冷静に分析しているつもりで、うかうかと共感してしまい、自分の苦しみを忘れて相手の苦しみを優先してしまうこと。そうやって自分を騙して、ごまかして、その場を乗り切ることだけで解決したような気になってしまいます。傷ついている自分は放ったらかしで。

子供の頃はこれでよかったんです。家からは、いずれ独立できると思っていたし、学校には卒業という終わりがあったから。自分をごまかして時間をやり過ごせば、そのうちその環境から脱出できました。だから、ただ時間切れを待つだけの対処方法でやってこれたんです。

でも、結婚には、自動的にやってくる終わりはありません。

夫が変わることを望むのも、夫から離れていってくれることを望むのも、夫が裏切り行為をしてくれることを望むのも、夫に死んで欲しいと思うのも、私が消えたいと思うのも、全部、自分で終わりを設定できない私の弱さから来るものです。

状況が勝手に変わってくれることを、まだ待っているんです。

そのあとの現実にどんなものが待っていても、それは状況が変わってしまったから仕方のないことなんだと、言い訳がきくから。子供が不幸を感じても、私がそこに責任を感じなくて済むから。

私は、自分で責任を取ることから逃げています。子供の人生にも、自分の人生にも。

でも、夫と同じ時間を過ごすたび、私のどこかで悲鳴を上げているのを感じます。私は本当は、逃げたいんだ。でも逃げることで襲ってくる現実を思うとひるんでしまう。だから準備が整うまで、と自分に言い訳をして、先延ばしにしてしまう。ただの現実逃避です。実際、ここのところ現実逃避的な行動ばかりしていました。

そろそろ現実を見たい。冷静に前を見たい。



この週末、また夫は金銭的な締め付けを強めてきました。家の中の私の私物も、断りなく捨てました。2人の部屋だったはずの場所も、勝手に模様替え。私はダメージを受けてしまうことがわかっているので、ノーコメントで通すしかできません。相手は私に何か言われることは予想済みで、ダメージを与える返答を既に用意しています。

こちらがやり過ごせばやり過ごしただけ、向こうは間合いを詰めてきます。残念ですが、まともにやり合ってかなう相手ではありません。ずっと認めたくなかったことですが、それは私が一番よくわかっています。

一方が、自分の稼ぎを盾に断りもなしに生活を管理しようとしている。他方は、ダメージを怖れて、言いたいことも言えない。これが今の私たち夫婦の現実。(夫婦と書いてものすごく違和感がありましたが・・・)
posted by 蝉ころん at 12:44| Comment(2) | 近況報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月11日

中休み

今日は夫が子供(だけ)を誘っていたので、これ幸いと家に残りました。三連休はキツいので正直助かりました。

昨日は夫の買い物に付き合って出かけたんですが、新たな発見。

夫との買い物がなんであんなに疲れるのか。こっちに主体性がまるでないから。

子供の遊びに付き合っているときと同じような感覚です。よく、男の子のお母さんは特に、子供がうろちょろと動き回るのを追いかけて疲れきってしまいますが、その感覚と全く同じだったんだと思いました。

ただ自分の行きたいところに、説明もなくずんずん進んでいく。後ろを振り向きもしないから、子供がごねでもしたらすぐ見失ってしまう。

以前は、なんて自分勝手で無責任なんだろうと思っていました。

昨日は、ああ、「ボクちゃん」だから仕方ないな。って、放っておきました。それでもずいぶん疲れました。子供は一応お父さんについてきたがるし、そうするとずっと夫を見張ってなきゃいけませんから。


夫の世界観は「母」か「息子」。とすると、夫はずっとこんな行動を許されて育ってきたんでしょう。むしろ姑は「自分から行くところをどんどん決めて頼れるわあ」なんて思ってたフシありなのです。姑自身が主体性がない人ですから。ということは夫が人を主体性のないものとして扱うのはごく自然なことなんでしょう。

で、こうやって主体性のないものとして扱われているうちに、私自身の主体性も、だんだんなくなっていってたんだろうなと思います。

主体性があるのに発揮できない状態はストレスが溜まりますから、主体性をなくしていったほうが楽だったんですね。


それで、昨日の買い物。わりと夫にとっては思い切りのいる買い物だったようで、私がノーコメントを貫いたら、結局決まらず何も買いませんでした。子供に意見を求めてましたけど、子供は私に聞いてくるし、私ははっきり意見言わないし、私に直接聞きにも来れないし困ってたみたいです。ボクちゃん、自分で決められないんだね。頑張ってね。と、思いながら傍観してきました。

ちょっとだけボクちゃん効果あったかもです。明日にはどうなってるかわかりませんが。(^^;
posted by 蝉ころん at 13:18| Comment(3) | 近況報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月09日

呼びかた変更

私、ここ4年ほど、夫のことを心の中で「クソオヤジ!」と呼んでいました・・・。

今日から、呼び方を変えることにしました。

「ボクちゃん」

です。

「クソオヤジ」では大人だということを認めている!しかも、虐げられている人間が、悔し紛れに憎まれ口きいてるみたいだ!これでは夫にコントロールされているのを認めているようなものだ!

ということで。

所詮おこちゃま。私と同じ大人としては見ない。発言は所詮大人の事情のわからない知ったかぶりの子供の発するものである。子供たちの遊び仲間であることは認める。

などの意味を込めました。

「クソガキ」でもよかったんですけどね。子供の友達をそんなふうに思ってるのって子供心に感じるかな、と思って。

ちょっとした言葉の変化で気持ちってかなり変わるもんだと実感しているので、これで少しでも夫のモラ行為で受ける衝撃がやわらぐんじゃないかと期待しています。

明日からの3連休、「ボクちゃん」効果は出るでしょうか。

あ〜ヤダヤダ。連休なんて。

みなさんもお気をつけて。m(_ _)m
posted by 蝉ころん at 15:19| Comment(2) | 近況報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

家事について

私は家事が嫌いです。掃除が嫌いで、炊事が嫌いで、洗濯が嫌い。

掃除をした日、どうも私は機嫌が悪いなあと、思います。子供が散らかすのを大目に見れなくなるんです。これは私が無理をして掃除をしてるからでしょうか。

掃除をしても、大丈夫な日もあります。そういう日は、適当に掃除した日。ところどころ掃除機をかけてないところがあったりする。掃除機もきちんと片付けてなくて、出しっぱなしだったりする。だからこそ、パン屑を落とされても許せるし、ハサミで遊んで紙くずがたくさんになっていてもわりと平気。

「せっかく○○したのに」と思うほど家事をしちゃいけないんですね。

食事も、食べてくれなかったりおいしくないとか言われて「せっかく時間をかけてつくったのに」「せっかく喜ぶと思ったのに」なんて思っちゃって笑えないくらいなら、適当にして笑っていられるほうがいい。どれだけ栄養のバランスを考えたって食べてくれなきゃ一緒なんだし。

洗濯だって、漂白までして真っ白にして汚されて怒るより、多少色が残ってたって洗ったからきれい、それでいい。ちょっとくらいシワがあったって、アイロンかけなくてもきれいだから十分。もちろんTPOはありますが。これは、今実践できています。洗濯だけはそれなりにできているのはこのおかげ?

どうも私の場合、家事をして得られる自己満足より、それを維持管理できないことで感じるストレスのほうが大きいらしいです。完璧主義のせい・・・かな?

だったら、維持管理するレベルを落とすのが先決でしょうか。子供がいても、夫がいても、維持できるレベルに落とす。とにかく力みすぎないように。

その辺りのさじ加減は、自分でできます。私はそれをできるだけの力はあります。たぶん。

夫はその辺が理解できなくて、夫の理想を押し付けてくるし、夫の尺度で評価してくるけど、それこそどうでもいい。

私の尺度で嫌なら、自分でやれと。そしてその維持管理に私は関わらない。私はあくまで私のできるレベルで。私の決めたやり方で。夫の尺度に左右されなくていい。

これを私の方針として、やってみようと思います。気負わず、気楽に、気長に。
posted by 蝉ころん at 15:00| Comment(5) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月08日

私のうつ症状について考えた

私は、自分がうつ状態になっているということをなかなか受け入れられませんでした。

その理由は、大きく二つありました。

一つは、私が、物心ついたころから馴染みのある精神状態だったから。これがうつだというなら、私はずっとうつだった。私の半生がほとんど病気だったということか・・・という気持ち。

もう一つは、私自身が、うつになりやすいと言われる「まじめで責任感の強い性格」だとは思えないから。

今週、こんな本を読みました。

「うつ病を体験した精神科医の処方せん」

夫が私に対して「うつが治ったら今度こそ完璧な妻に仕立ててやる」という野望を抱いているらしいことに、私はずっと「熱が下がったからって薄着で吹雪の中に放り出したらまた風邪ひくに決まってんだろ(乱暴な表現で済みません、素の私です(^^;;)」と思っていました。

そういうことが、しっかり書いてあって、すごくほっとしました。うつにならない、手抜きした生活を推奨されています。

それで、もう一度私の生活について考えてみました。

私はたぶん、小さいころからうつ的なものがあったんだろうと思います。それで、私なりにそういう状態になったときに手を抜いて生活することを早くから身に付けていたんです。きっと。

だから、ストレスでいっぱいいっぱいになった時、最優先すべき子供の心の安全を確保して、それ以外は極力手を抜こうという決断ができたんです。たぶん、それで対処できるはずだった。なんとかなりつつあったはず。

ただ、自分ではそれが自分の精神と、子供を守るために最善の道だという、確たる自信がなかったんです。あまりにも自然に身に付いた対処法なので、理論武装なんてしてるわけもありません。そこへ何もわからない夫から「ダメ母」の烙印を押されたことで、自分でもわけが分からなくなっちゃったんだなあと思います。

自分はどうやら半袖だと風邪をひきやすいようだから寒い時に長袖を着ている。それなのに、長袖を来ているのは軟弱だ、脱げ、といって脱がされるようなものでしょうか。

それで風邪をひいたとしても、脱がした方は謝るでしょうか?たぶん、やっぱり軟弱だ、普段鍛えてないからだ、と言うでしょう。

長袖を着る理由は、寒いから。どちらかと言うと保守的なものです。でもそれが普通ですよね。一方、半袖を着るほうは、寒さに負けない強い体を作るため、とか、寒くなんかないから、元気だから、とか、すごく前向きな、好意的に受け取られやすい理由があります。

半袖を来て元気に過ごすのは確かにいいことかもしれません。でも、それを押し進めるあまり、長袖を選ぶことを悪いことにしてしまうのはどうでしょう。

どっちでもいいことですよね。

家事についても、長袖半袖と同じように、怠慢、理想の極論があるように思います。

風邪の原因が寒さとすると、私のうつ症状の直接の原因は、やっぱり家事、育児の負担にあるんだと思うんです。ただ、その負担を軽減しようとする私の行動を夫が見張っているということが、私にとって一番困ることなんです。長袖を脱がせようとする人間です。

私は自分で長袖を選ぶ権利があるはずです。たとえ半袖がいいことだとしても、私がそれで風邪をひくなら、長袖を着ていていいはずなんです。体を強くするのに半袖がいいとしても、体を強くしようと思うかどうかは私の自由なはずなんです。そしてそれを実行する時期だって私が決めていい。

夫が長袖の私に不満なら、脱がせようとするんじゃなくて、半袖の相手を探せばいいんですよね。

私も、私に半袖を着させようとする夫が嫌なら、離れていいんですよね。



ん〜、なんか話がずれちゃいました。風邪の例えを出したのがよくなかったかしら。(^^;
posted by 蝉ころん at 12:22| Comment(6) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月06日

調停委員に関するアンケートのお知らせ

モラルハラスメント被害者同盟の管理人様より掲載の依頼がありました。(メール取り込んでなくてすっかり遅くなりました。この場を借りてごめんなさい(^^;;)

調停委員のうわさは私もよく目にするところで、実際調停となったら私はしっかり自分を主張できるのかしら?と不安になったりもしています。

問題意識が高まって少しでも改善されるといいんですが。

↓メールより転載です。



日頃よりモラハラ被害者同盟の活動について応援いただき、ありがとうございます。
この度、北海道新聞より依頼を受けて、「調停委員に対する不満アンケート調査」を
行うことになりました。

調停の時に感じたあの怒り、あの憤り、あのむなしさ。

調停委員の無理解に対する不満をお持ちの方は、ぜひご意見ご感想をお願いします。
みなさまの声は2月下旬北海道新聞に掲載される予定になっています。

書き込みフォームはこちらから。

http://www.efeel.to/survey/hokkaido/


posted by 蝉ころん at 14:40| Comment(0) | 近況報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月05日

キーマンとその周辺

こんにちは。この週末は二日とも、朝晩を除いて夫と離れて過ごしたので少しマシな週明けです。

といってもモラ行為自体は再燃してきているので多少のダメージは受けましたけど・・・まあ大丈夫です。

さて今日も「仲間欲求」について考えたことを。



三つ前の記事の、集団の中で嫌がらせをする人の行為が何かに似ている・・・と考えていたんですが、これは兄弟が産まれた時の上の子の反応、か?と思いました。

下の子にお母さんをとられたと思って取り返しにいく行為です。「赤ちゃん返り」もこれの一種ですよね。下の子より手がかかるようになってお母さんを取り返す、みたいな。

上の子があるていど大きくて素直に赤ちゃん返りできないときの行動が、集団の中で経験する嫌がらせにとても似ている気がします。下の子とお母さんの間に入って、自分しかお母さんの視界に入れないようにするとか、下の子がお母さんと会話している時に用もないのに割り込んでくるとか。

焼きもちって言えばそれまでなんですけど、根っこはここにあるのかなと。

そして、私が感じる不快感も、根っこはここにある気がします。

私自身は覚えてないんですが、母から聞いた話では、私に授乳する時の兄の赤ちゃん返りがひどく、私に授乳するのを断念したといいます。そして、なににつけ兄を優先されていたらしい。

赤ちゃんのころの記憶はないけど、子供時代の記憶はあるし、こういう、赤ちゃん返りをしていた兄を優先された記憶が、必要以上に嫌がらせに反応してしまう面につながってるかも。



そしてキーマンとなる人物についても考えてみたら、母親的な、資質を持つ人ばかりだったんです。どこの集団でもそうなっているわけじゃないです。「私の好む集団」のキーマンです。

ようするに私は、母親を中心として和気あいあいとしている集団、つまりは家庭の一員になりたかったんです。それで、母親に褒められたくて自己主張しているうちに長子に疎まれて居所をなくす・・・と、まんま、実家での経験を繰り返していました。

そういえば、仕事とか、一つの目的に向かって団結して事に当たる、というような集団では、私は父親的キーマンが好きでした。職人気質で、頑固で、技は教わるより盗め!というような人。これも、実家の父かも・・・。

そんなに私は家族からはみ出していたことに縛られていたのかなあ。それとも、みんなそんなもんなのかしら。

そういえば集団で意見を通すことに自信が持てないのも、家で私の意見が通ったためしがない、ということが関係あるかもしれません。家庭ってほんと、社会の縮図、社会活動の最初の一歩なんですね。

これから少し集団で過ごす時の見方が変わりそうです。
posted by 蝉ころん at 15:04| Comment(4) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月02日

感情移入

ちょっと思いついたので、忘れないうちに。(^^;

私は、昔からものすごい感情移入する子でした。今もそれは変わりません。ドラえもんで泣き、大草原の小さな家で泣き、サザエさんでしみじみとし、名作劇場で理不尽にのたうち回る子供でした。

感情移入ってなんでしょう。

相手の立場になって考えること?相手の身になって考えること?相手そのものになったように感じること?

私は、なんていうか、その人の考え方に染まってその状況にはまり込む・・・みたいな感じ方をします。でも、私ではない人だ、私はなりきれはしない、全部は理解できてない・・・という感覚は持っています。

「ああ、それは辛いよね」「悲しいよね」と感じつつ、こんなふうに同情されたら嫌だろうなって思っていました。だから普段はかなり抑えて表現します。

でも、コメントを頂いたり、コメントを返したり、していて、これってひょっとして同情じゃないのかしら?って思いました。共感に近いのかな?って。

それで、もう一つ連想したのが、私が自分に感情移入してるみたいだ、って思ったことがあること。そのときは、なんだ自分の不遇に同情して変なヤツって、ちょっと恥ずかしく思ったけど、ひょっとして私は自分に共感してたのかも。

チャイルドの癒しで「お母さん」を出してくる時、このときも、私はチャイルドに感情移入してます。それで、共感して、心からの言葉をかけている・・・それで、チャイルドが泣き止んでいました。

感情移入でいいのかしら。

と、なんとなく。

私は悲しいお話は嫌いじゃないです。よく読んだり観たりして、泣きます。これはひょっとして、感情移入することでチャイルドを引き出してるのかも?それで癒してるのかも?チャイルドを出せる場面を欲してるのは私なのかも。癒すために。

なんか、そんなふうに思いました。

ちなみに、夫は悲しい話が嫌いです。フランダースの犬とか、蛍の墓とか絶対ダメ。観ないし、観たとしても評価しません。暗いから嫌いだそうです。彼の家族もです。まるで、悲しいことを感じるのを禁じられてるみたいだなあ・・・って思いました。暗いなんて言われたら、こっちは好きっていえなくなりますよね。そこはモラ。

そして夫家族は、ギャグものも好きだけど、頑張って成功する話が大好きです。成し遂げた!みたいな瞬間に感情移入して泣くようです。それも気持ちはわかるんですけど、なんだか、かなり激しいです。夫の子供時代を象徴しているような気がします。

夫は、頑張って成し遂げることを褒めたたえられて、悲しいことはなかったことにして、見ないようにして生きてきたのかな。確かに今もそんなところがあるし。

なんか、感情が入る部分ってその人の象徴的なものなのかも。



どんどん感情移入したらいいのかも。自分が見えてくるみたい。映画見て泣けるなら、どんどん映画見よう。そこにきっとチャイルドがいる。小説読んで泣けるなら、どんどん読もう。漫画でもいいや。

どんどん感情移入して、見えてきたチャイルドに感情移入しよう。

そんなふうに思いました。
posted by 蝉ころん at 20:16| Comment(8) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ちょっと整理

どうも忘れっぽいです。

忘れっぽいのも、昔に獲得した能力だろうと思います。だって、昨日いじめられたことを覚えていたら、学校に行けなかった。昨日待ち伏せされていたことを覚えていたら、学校を出られなかった。だからいつも、何かある直前ギリギリまで出来事を忘れていて、いざ、同じ場面に出くわした瞬間にバアッと思い出す、そんな状態でなんとか乗り切ってきたと思います。

私が直前にならないとやる気が出ないのとか、事前準備が下手なのもこれが影響しているのかなあ。

ということで今の堂々巡りの状況を書き記しておこうと思います。



1・私はやっぱり夫とは暮らしたくない、暮らせない
  ↓
2・別れるなら、子供はどうなる?今のままでは養えない
  ↓
3・仕事を手に入れてから別れたい
  ↓
4・それまで一緒にいなければならない
  ↓
5・一緒にいるストレスを少しでも感じないために、改善の努力をする
  ↓
6・夫への理解が深まり、同情が湧く
  ↓
7・なんとなく楽に過ごせるような気がする
  ↓
8・子供のためにもこのまま過ごすべきか?
  ↓
9・夫の行動が変化し、ストレス増大
  ↓
(1・に戻る)



この思考サイクル、生活サイクルをず〜〜っと、続けてここまで来た気がします。これ書いて、DVのサイクルを受ける側の心理に置き換えた感じになるのかなと思いました。

で、私の特性の忘れることが絡むと、段階を進むごとに、3つくらい前の段階のことは感覚を忘れ去ります。すると、「絶対もう、何が何でも別れたい!」から「共存できてるんじゃないの?」と極端から極端へと揺れ動いてしまうんです。

忘れたからこそここまで生活を続けてしまったし、忘れるからこそ次にくるダメージが増大してしまう。しかも私が平然と生活しているのを見て不可解なものを感じて余計に攻撃してくる、という悪循環です。

長く続ければ続けるほど私のダメージが蓄積するのは必至。

忘れてしまうという行き癖は、たぶんそう簡単には治らない。だから、書いておくことで少しでもそのときの段階を確認できないかな?という試みです。

どこかに書き出しておこうかな?
posted by 蝉ころん at 15:51| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月01日

仲間入り欲求と仲間はずれ不安のもたらしたもの

まだまだ「仲間」というものにこだわっています。(^^;

私のかなりの行動原理がここから出たものらしいので。


・数人人が集まると、自然にキーマンを探している

 この人に嫌われたらいられないという不安がある。
 この人に気に入られれば安泰という安心を得るため。

・能力を認めてもらえないことに不満を感じる

 認めてもらえない=追い出される、という不安。
 認めてもらう=仲間でいていい、という許可になってしまっている。

・能力を認めてもらうために必要以上に自己主張してしまう

 主張しているのに見てもらえないことで不安がエスカレートする傾向がある。
 主張が過剰になってしまうと、和を乱す存在になって、結局いづらくなる。

・1人でいる人を見過ごせない

 自分だけが仲間に入れればそれで良い、という嫌われる行動をとりたくないだけ。
 仲間に引き入れた相手に自分の立場を奪われたりして、不快に思ったりする。

・人を嫌えない

 その場にいたいがために、嫌なことをされていても相手を嫌えず、理解しようとしてしまう。
 理解してしまうと嫌えない、離れられない、の悪循環。

・自分を出せない

 ある程度メンバーとして認められると、守りに入ってしまい、自分が出せなくなる。
 まわりの話題に無理についていこうとして、知ったかぶりをすることがある。

・私を排除しようとする人間を嗅ぎ分けてしまう

 相手がさりげなく私を外そうとしていることを感じ取って敵対心をもつ。
 その人のまわりにいる人たちまで信じられなくなる。

・キーマンのいない集団に不安を感じる

 自分の立ち位置がわからなくなる。
 集団に入れていない感じがする。

・自分のしたいことがわからない

 仲間に入るためにしていることであって、したいから仲間になったんじゃない。
 得意なこと、好きなこと、は、ある。でも、本当にしたいことは?わからない。
 これは、今の課題。




今のところ思いつく問題点は、こんなところでしょうか。

どれも、意識して、「不安を感じなくてもいい」と認識できるようになれば、解決していけそう。夫から評価されるのが嫌なのも、「夫がキーマン」と無意識に認識している自分がいるからだと思います。「キーマン依存症」かしら。



それでどうも、私は「キーマンの腹心」を狙っている人物に目をつけられやすいらしいというのも、最近やっとわかったこと。私とはちょっと違う理由が働いているようですけど、キーマンに気に入られたい人はたいがい他にもいて、そういう人には私が邪魔になるようです。まあそうでしょうねえ。同じところを狙ってるようなもんですから。私は別に「腹心」にこだわってるわけじゃないけど、そう見えるでしょう。

他の人と離している時にさりげなく間に割り込んでくるとか、輪になって話している時に、微妙に形を崩して私だけ外れるようにするとか、こちらが話している最中に他のことをしだして無視するとかいう嫌がらせを、今でもされることがあります。

あまりにも自然にするので周りの人からはまったくわからないんですよね〜。故意だと気付いてからはうまいことやるな〜と感心するくらい。これもモラハラの一形態ですね。

私はこういう人に嫌われていて、嫌いなものだから排除されようとしてるんだなと。

私は、集団に属することが大切で、でも嫌いな人と一緒にいるのは不快。だったら、嫌いな人を嫌いでないことにするために相手を理解しようと努力する。そういう方法をとります。

でも、私に嫌がらせをする人たちは、同じように集団に属することが大切なようだけど、嫌いな人と一緒にいるのが不快だから、集団から出してしまう方法をとっているわけですね。それも、「邪魔だから出て行って」と言うわけにいかないことはわかっているから、相手を居心地悪くして自分から出て行くように仕向けるという・・・。あ〜ヤダこういうの。

私はこういう人たちが嫌いです。嫌いでいいんだと思う。で、こういう人は、集団に必ず1人くらいはいます。

だから、たいがい私は目の敵にされて、はじっこで集団にしがみついているのか、出て行くのかという選択を迫られちゃうわけです。

私は集団が大事なんだろうか。それとも集団の活動が大事なんだろうか。

集団が大事なら、自己主張せずになんとなくそこにいれば、たぶん目をつけられることもないでしょう。なんとなく集団にいればそれでいいじゃない。でも・・・これは私は嫌。

じゃあ、集団の活動が大事なんだったら、もっと自分を出して目をつけてくるような人に負けないくらいになればいいんじゃないかしら。むしろとりまきにしてあげるわよ、くらいの勢いで。それか、出て行って自分だけで活動すればいい。

別にキーマンにランク付けしてもらわなくていいじゃん。私は私で、それだけでいいんじゃないの?

それにはやっぱり、自分のやりたいことと、そのことへの情熱、みたいなものがあるかどうか。なのかなあ。

まだそこまでは・・・ちょっとハードル高いなあ。(^^;
posted by 蝉ころん at 11:28| Comment(4) | 私を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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