2013年07月06日

だらだらゆるゆる

お久しぶりです。

すっかりだらだらとすごしています。
部屋は散らかり放題、洗濯物も溜まり気味、食事もかなりいい加減。手抜きか総菜。
以前の私ならあり得ない状態です。
いや、一人暮らししてた頃ならこんなもんだったかな?

とにかく、無理していない状態の私には戻ったようです。
ハラッサー気質もすっかり影を潜めて、のんびり温和な性格が定着してきました。
よほど「普通の人並みの生活」がストレスだったのかな、かなり無理して頑張ってたのかな、と思います。
小さい頃からね。

私にしてみれば、相当無理して頑張ってキープしていた「普通の人なみの私」像で、満足されない、認められない、むしろ努力してないと思われていた。
ハラッサーになるほどまで無理していた虚偽の自分。
だからこその絶望だったし、社会に対して、大人に対しての騙された感。

自分の思いを押し込めて頑張って社会の「良い子」をやっていた。
でも誰も認めてはくれなかった。自分も結局は認めきれていなかった。
「よくやった」「偉い」と自分を褒める事はしていなかった。
「きっといつかいいことがある」と不確かな約束を自分自身にし続けて、自分を騙し続けて、自分を傷つけ続けていた。
そして「いつかのいいこと」が訪れない運命と、「いつかのいいこと」を与えない社会に苛立っていた。
自分で勝手に自分と約束しておいて、その対価を社会に求めていた。

確かにそれはいろんな「世間」から植え付けられた価値観、やり方だった。
「良い子でいたらきっといいことがあるよ」「誰かが見てるよ」
脱いでみたら、いらない価値観だった。
それに私はそこまで頑張らなきゃいけないほど悪い子でもなかった。


今は部屋はキタナイし、服もなんとか回してる状態だし、栄養もヤバいかもしんない。
でも不思議とキチンとしてた頃より病気もしないし、心は軽くなった。
子供とも、すごくよく笑い合ってお喋りする。
食事に時間がかかりすぎるくらいお喋りする。
普通に悪い事は叱るけど、叱らないといけないことが殆どなくなった。
良い家庭環境ではないかも知れないけど、これくらいで良いんじゃないか。

私自身の生育環境がそれほどのものでもないのに、そんなにいきなり良い家庭になれなくていいじゃないか。
むしろ私がそこまでできるなんてすごい自惚れてたんじゃないのか。
私にはこれくらいで上出来なんじゃないのか。
上出来だって認めてあげたらよかったんじゃないのか。


こんな感じでゆるゆる生活です。
ここまでゆるいと友達減りそうなくらいゆるゆるです。
今の状態で友達減るなら、もともと友達にはなれなかった人かもね。
posted by 蝉ころん at 08:30| Comment(0) | 近況報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月15日

要求の強い子

ひさしぶりにころんちゃん登場した。

のぞむとテレビ権争いして。
私が番組を見てたところへ、ビデオが見たいから替わって、と言ってきた。
「お母さんこの番組見たいんだよ。だから嫌だよ」
と返す。
「のぞむも見たいんだもん。おーねーがい」
ときた。もう少し頑張って
「お母さん一週間でこの時間しかテレビ見てないんだからこの時間くらい好きに見させてよ」
と言ってみる。
「どーーーしても見たいの。お願い!お願い」
悪気もなく、ただ見たいだけ。
こういうストレートな言い分に弱い私。
結局譲った。不機嫌になりながら。


別にそんなにどーしても見たいって番組じゃなかった。ただ、ちょっと面白そうだなって、それくらい。
もともとテレビは付いてるとなんとなく面白そうな気がして見てしまうけど、どうしても見たいのはそんなにないから、いつもあんまり見ないようにしている。ただ私の好きな1番組だけはリアルタイムで見ることにしていて、その時間は「お母さんがテレビを使う時間」になっている。今日は好きな番組がやってなかったから、違うのを見ていたら、のぞむは見慣れていない番組が面白くなくて好きなのが見たくなったらしい。


それで、私が不機嫌になったのは、見たい番組が見れないから、じゃない。
私も見たいんだ、と言っているのに、私が見ていいはずの時間なのに、悪びれず横取りしようとしてきたから。そして、あまりにも無邪気なその行動で、ブラックボックスに突入したらしい。
すっかり子供に戻って対等な気分で腹が立ってた。


子供の頃、私を嫌な目に合ったとき、こういうタイプがいたんだ。

悪びれず、かわいく、でも実はずうずうしいことを当然のように頼んでくる子。しかもしつこい。私が嫌がって拒否し続けると、相手の方がいじめられてるみたいな雰囲気になってきて、だんだん、私が悪いことをしているようになってしまう。

まわりにいてる大人などは、相手の子が泣き出したりしてから事態に気付いて、「そんなに嫌がらなくてもいいでしょ、やってあげなさい」とか、状況も知らずに簡単に言う。さらに嫌がっていると「意地の悪い子だ」なんて言われたりする。

そんな大人が周りにいなかったとしても、相手の子自身が周りに「ころんちゃんがひどいの」などと言って回るので、後日「○○ちゃんに意地悪したんだって、なんでそんなひどいことするの?」なんて言われたりする。私はそんなことを人に言ったりもしないし、元々言えるような友達もいないので、味方はいない。説明しても、「嘘ばっかり」とか言われてしまう。


のぞむにその子を見ていた。

私は、そういう子に対しては、実はそんなに強い怒りは持っていない。
そういう子は、ただ自分の我がままを言いたいように言ってるだけってわかっていたから。ただ私が要求を受け入れなければそれでいいと思っていたから。

怒りはやっぱり、まわりの人間に向いている。公平でない、一方的に相手の言い分だけを聞いたり、いつまでも収まらないその子の要求に面倒くさくなって私の当然の権利を放棄させようとする人達。ずうずうしいのはあっちでしょう?あっちの言い分がいいなら、私の言い分だっていいはずでしょう?

人間は、「嫌だ」という方を意地悪だと思うようなところがあるのかもしれない。いつも私が悪者だった。たとえ、みんなに1つずつ配られたクッキーを、私が大事にとっていて、その子は他の子からも何枚ももらってあっという間に食べてしまっていたとしても、それでも私のクッキーまで要求してくるその子の要求の方が、通されるのだ。これは私のだから嫌だ、という私の当然の主張は、協調性のない証拠にされてしまう。たくさんの子からクッキーをもらったその子は、お友達が多くていい子なんだって。
私は実際友達がほとんどいなかったし、私がなにかもめ事の当事者になっていると、相手方に味方が沢山つき、私が悪者になるのが当たり前な雰囲気ができあがるし、大人もそんなものだった。


私はその子に言って欲しかった。

なにをいつまでも言ってるんですか、あなたは自分のクッキーを食べた上に友達の分までもらっておいて、ころんがとっても楽しみにして大事にとっておいたクッキーまで取る気ですか?ころんは嫌だと言っているんだから、もう諦めなさい!

ころんが悪いわけじゃないでしょう!人のせいにするのはやめなさい!

ずうずうしいのはあなたです!

泣きたければ泣いていなさい、先生はそんな行為は許しません!

いいですか、人のものを際限なく欲しがるのは卑しい行為です。そんな行為に対して自分の大切なものまで譲ってしまうのは優しさではなく、愚かな行為です。大切なものを守り通すことも大切なんですよ。


なんてね。

私の判断が間違ってないって、後押ししてほしかったんだなあ。

でも本当は自分で言いたかった。多勢に無勢じゃなくて、対等に、1対1で。周りは本当に第三者でいてほしかった。

え?あげないよ。
あんた自分のもってんでしょ?
あげたくない人のまで自分のものにしようなんてずうずうしいよ。
あげないって言ってるでしょ?
私だって楽しみにしてたんだよ?
あんただけが欲しいんじゃないんだよ?
泣いててもいいけど、私は絶対あげないよ。私だって食べたいもん。

それで断固として跳ね返してやりたかった。

それを、大人が見守っててくれたら、嬉しかった。

でもこういうことがしょっちゅうあったから、泣こうが喚こうが、嘘付こうが、嫌がらせしようが、マナーもルールも破っても、結局味方を集められる人間が得をするんだな、って、学んじゃったな。

で、そこまでを予測して、要求の強い相手には渋々譲るようになった。悪評を避けるために。だから私の恨みは悪評に向いてる。ジャッジして私に悪者のレッテルを貼る外野の人達に向いてる。

のぞむに対して、上手く表現できない感情の正体。


のぞむはまだ、成長中だし、意欲が強いのはいいことではあるから、周りの人との兼ね合いを学んでいってくれればいいなあ、と思う。

次こういうときは私はどう表現しようかな。
posted by 蝉ころん at 22:43| Comment(0) | ころんちゃん覚え書き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月07日

肯定の積み重ねのきっかけづくり

まだまだ考えつつ生活する毎日で。

考えていることの中心は自分育て&子育て。

そもそも自分育てを始めることになったのは、子供が幸せに育つにはどうしたらいいのかと考え始めたのがきっかけで、自分が幸せを感じないもとを辿ってみたら親が幸せに生きようとしていないことを生き方として学習したからということに辿り着き、んじゃあまず私が幸せのお手本になるのが大事なのかと思った。

そうしてみたらば、私は自分の幸せが何なのかが全くわからなくって、とにかく欲しいもの、したいことといえば話を聞いてほしいとか甘えたいとか休みたいとか独り占めしたいとか我がまましたいとかみんなと同じことがしたいとか同じものが欲しいとか・・・・

大人の幸せじゃないよね、てものばかり。

でもこれをクリアしていかないとその先は見えないと実感できてきたので、一つ一つ取り組んでいってるところ。

それで私のかなり大きな部分を占める欲求のひとつが「所属欲」で、受け入れられたい、認められたい、役に立ちたい、・・・そんなあたり。

これは元々育った環境で全く受け入れられたと感じられず常に余所者感を背負って生きてきたからだけど、じゃあ具体的にはどんなことが「受け入れられた」感を育むのか?と考える。

たぶん、もともと受け入れられている人達にとっては当たり前すぎて気付かない事柄の中に、「受け入れられた」体験がたくさんあるなあと思う。



で、私がそれを今から1人で経験することは無理だけど、子供たちにはまだそのチャンスはある。

子供たちにとって、私は個人でもあり、蝉家そのものでもある。私に受け入れられることがそのまま蝉家に受け入れられたことになる。なので機会があって自分にも余裕があったら、なるべくそういった経験ができるようにしたいと思ってる。



そのうちの1つがみんなですること。

なんでもないこと、簡単なこと、実は1人でした方が効率のいいことって、つい1人でしてしまいがちだけど、そこにうまく参加させてあげて、「みんなでして楽しかった」感覚をたくさん経験するといい気がする。

のぞむは思い立ったときに自分から入れて!と言えるけど、ひかるはまだ入りたいという気持ちがなかなか湧いてこない、感情の蓋の固い状態なので、入れる状況があったほうがよさそう。

で、ひかるとのぞむに提案して、ひとつみんなで取り組むことを考えた。

お片づけの時間。

ざっくりその時間になったら、5分だけ思いついたところを片付けたり、掃除する。終わったら、「おつかれさまー」っていってみんなでピノを1個ずつ。

それだけ。

やることとしては、遊んだ後に片付ける、とかで済むことだけど、それをみんなで同じ時間にする。自分のしたことのあと始末としてじゃなくて、家のみんなのこととしてする。

楽しくて終われる時間だけ。終わったらみんなで顔を合わせて1人1人がしたことを教えてもらってきれいになったねーってにこにこ笑う。決まった時間をやりきって満足すること、片付いたことで気持ちいいこと、みんなでワイワイ楽しいこと、ご褒美のアイスがおいしいこと、みんな笑顔で嬉しいこと。小さいことが少しずつ入ってる。こういうのってたぶん、掃除=楽しいにつながってく。どれくらいかけて定着していくのかはわからないけど、重ねれば重ねるだけ強くなってくはず。

楽しいのが目的だから、縛らない、こだわりすぎない、無理しない、欲張らない、頑張らない、長引かせない。ひかると私は頑張るスイッチが入りやすいから、入れないように気をつける。あと、ハラッサーの陥りがちな、「楽しいと感じさせてやろうと思ったのに」にならないように。楽しめない時があっても、それもよし。できないときも、それもよし。

今まだ1週間。ぐだぐだになってる私、自由気侭なのぞむ、こだわりのひかる、の3人でどこまで続くかわからないけど、今のところ、自分から声をかけてきたりして、楽しんでるみたい。

私も、1人でするより気分がいいみたい。思ったより私のためにもなってる。

子供たちは掃除が目的と思ってるけど、私は本当の目的、家族で一緒に嬉しいを感じること、を意識しておいて、ただゆるゆると続けられたらいいなと思ってる。
posted by 蝉ころん at 17:54| Comment(0) | 自分育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月28日

攻撃的な非難

突然見知らぬ人からメールが届いた。

とても攻撃的に私の落ち度を一方的に責め立ててくる内容だった。

SNSの一種で登録してあるアドレスに送信されてくるようになってるもので、直接のやりとりがあったわけではない、すれ違っただけの関係なはず。

こういうことがあると、精神状態が一気に崩れる。

子供を相手にしているときにハラッサーへ切り替わるのと逆の反応、被害者思考に陥る時のパターン。

たぶん、相手のしてることは子供のしていることと自動思考的には同じはず。

視点の固定された捉え方で、相手の考えも理解しないまま自分の不満を自分が背負えないためにくる全押しつけ。

やっぱり私も相手によって態度を変えているってことだ。たぶん、家族と、他人の違い。

家族には、それなりに自分の言いたいことを言っていたんだな。聞いてはもらえなかったけど言ってはいたんだな。

他人・・・同じコミュニティに属する他人からの攻撃には反撃しても逆効果と学習してしまった。後で倍返しでいじめられるとか、学級会でさらし者とか・・・・で、攻撃を感じたとたんに思考停止(本当は停止じゃなくて、答えが見つからない状態に感じる)して、萎縮してしまう。



そういえば最近はハラッサーころんの道しるべ作りは頑張ってきたけど、被害者ころんはほったらかしだった。

こっちのパターンも救ってみる。

まずこういう人物はこっちの言い分は絶対聞かない。何を言っても無駄。

自分の感じている世界が常識だと思い込んでいて、それを盾に脅してくる。

昔はいちいちこれに対抗していたんだ。親兄弟にぶつけるように。

親兄弟は話は聞かないまでも、その後いつまでも続くような報復措置はなかったから、それはそれで私の身に付いていたんだ。言葉にするのは私の力になるから。

でも、それはこの差出人のような人には通じない。

こちらが反論したり主張すればするほど、よりエスカレートしていくし、じゃあ相手の話を聞けばいいかというと、それも違って、もっと主張を強めてきたり、さらに長引く結果になる。

相手に対して、よかれと思って何をしてアプローチしても、全て逆効果に終わって、こちらの責められる立場が強化されていくだけ。

なぜか。

それは、相手にとってそれがプラスだから。

威嚇してきたとき、私が反撃したり、話を聞いたりすれは、それは相手にとってもっと怒れるということであって、プラスになる。

プラスの経験は、その行動を強化する。いいこととして学習する。

もっとしてくるようになる。

ハラッサーへの道まっしぐら。



つまりは放っておけばいいだけのことなんだけど、それが私にはすごく怖かった。

放っておく
 →なんで無視するんだ、と余計に責められる
 →コミュニティ内で人を無視する変な人ってレッテルがつく
 →孤立
 →何かあったとき、全員から攻撃される

っていうところまで、ブラックボックスで予期している、らしい。で、回答が見つからず、ボックス内で回転を続ける・・・

確かにそういう経験はあった。

とにかく、小学校在学中に、そういう経験が何回もあった。

小学校の経験から、私はコミュニティが怖く、人が怖くなった。少し仲良くなれた気がしていても、いつ私を責め立てる方に回るかわからない。信じられない。攻撃から逃れる術がない。もし冤罪を受け入れて謝ったとしても、それはさらなる攻撃の口実を与えるだけにしかならないと学んだから。

一度コミュニティでそういう立場に置かれると、そのコミュニティで立場を挽回することはできないと学んだから。



怖かったんだった。もちろん最初は嫌だったんだけど、嫌な経験が重なり続けたおかげで、嫌なことが起こる予感に恐怖が先にくるようになった。

それでも学校生活を続けるためには、その場にいなければいけなかった。

唯一状況を変える力をもっているはずの、上の立場の人物、つまり教師も、はみ出しっ子がいることに迷惑している様子で私を面倒者扱いだった。

逃げ場はないと感じていた。それが余計に怖かった。



怖かった。

こういう子、思い込みの言いがかりで世間・常識を味方につけて攻撃してくる人物が、私は怖かった。

こういう子の話を聞いて、簡単に味方になって私を責める方に回る、人間ってものが怖かった。

こういう子が攻撃を始めると、全体が一緒に攻撃を始めるコミュニティが怖かった。

誰か助けて。私の話を聞いて。そんなつもりじゃなかったのに。なんでこんなことになってしまうのか全然わからない。

私は悪いことをしようなんて思ってない。悪いことなんてしてなかったはずだ。

忘れ物をする子は悪い子だから私が悪いことをしたはずなんですか?

なんで誰も私の話を聞いてくれないの?

なんで先生まで私の話を聞いてくれないの?

なんで先生はあんな学級会なんてまだ人間として出来上がってもいない未熟な子供がつるし上げで出した結論をよしとして1人の子供に罪を押し付けるのを黙って見てるの?

子供たちが多数決で方針を決める経験をさせるためには1人の子供の冤罪なんてどうでもいいの?

人間の世界ってそんな世界なの?

・・・・そんな世界なんだ、と学習した。

私はそう学習して、世界にある意味絶望した。

そして怖がりの私を閉じ込めた。



大人になってハラスメント被害を受けたことで、ブラックボックスが強化されてしまった。

まだいた。怖がりの私。

大丈夫。

あんなのは、ただの言いがかり。放っておけばいい。

具体的に責められると自分がいけなかったように感じるけど、あれはただのいいがかり。

あなたのしたことは悪いことじゃない。

ただあの人が気に入らなかっただけ。それを伝える方法を工夫する努力をせず、ただ怒りをぶつけてきた無礼な人ってだけ。

あの人の目的は、不快の解決じゃなくて、ただ怒りをぶつけたいだけ。

だから、関わりたくないと感じている、そのままに行動すればいい。

大丈夫。怖くない。

怖いけど、大丈夫。
posted by 蝉ころん at 22:28| Comment(0) | ころんちゃん覚え書き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月24日

頭の中の高速トンネル

すっかり間が空きました。

相変わらずひきこもりで主婦業のみ、ひかるは不登校の生活ですが罪悪感はすっかり抜けてきて、焦りではなく欲求として、子供の状態にもあまり振り回されず、何かしたい、仕事がしたいという気持ちが見えてきています。

これが罪悪感を持ったままだったら、その罪悪感から逃れるために、「私はずっと働いてきたんだからこれくらい休む権利がある」とかになって、そこにすがりついてしまうことで、余計に罪悪感から離れられないっていう悪循環にハマるんだなーと。

「休む権利がある」は「休んでいい」とは違うし、さらに「休もう」とはもっと違う。

権利を主張しだすのは、世間的には許されないことだと思って他人に対して言い訳、
許可を与えるのは自分自身で良くないことだと感じているのを解放するためで、
意思をそのまま行動に移せるのがハードルのなくなった証拠。

状況的なハードルはもちろんあるんだけど、心理的なハードルは全部取っ払っちゃって大丈夫。
「休もう」と決めてから、状況をどうするか考えればいいだけ。

簡単なことだったんだなあと思う。

そういう思考パターンが地部の中にあったなーと。



この思考パターンてのは、自動的に入って出てくるトンネルみたいなもので、状況が起こった瞬間にトンネルに入って、行動が始まってからトンネルから抜けるようなかんじ。

トンネルの中は見えない。

周りの人も理解できないけど、本人も全く理解してない。いつのまにか感情が切り替わっていて、思考形態まで一瞬で変わる。

トンネルに入る前は車だったのに、出てみたらなぜか新幹線に乗ってたみたいな感じ。しかもそれが一瞬で起こる。

記憶が途切れているわけじゃなくて、全部出来事としては知ってるし、思い出せる。”自分の外側で起こったこと”は。

でも、トンネルに入っている間に自分がどういう経路を辿ってこの感情が湧いたのか、なぜこんな思考パターンに切り替わったのかは、記憶にはない。トンネルに入る前の感情、思考形態は他人の考え方のようで、とてもできるとも思えない。新幹線で出てきたら、車がどこにあるのかわからない。いずれ新幹線が止まったら、そこでやっと乗り換えるようなかんじだ。



蚊に刺された時、かゆいな、と思わなくても掻いてる時がある。それに似てると思う。

ある程度以上の頻度で発生する状況を経験すると、成功したやり方を無意識で使えるように学習していくんだと思う。

今私はキーボードで文章を打っているけど、これだって無意識化してる。どの指でどのキーをどういう順番で押そうなんて何も考えなくてもただ頭に文章が浮かんだだけであまり間違えずに打つことができる。

でも”同じ状況かどうか”を判断するのは私自身じゃないんだよね。

だからきっかけが何なのかはよくわからないから、このトンネルに入るときにはいつのまにか入ってしまっているし、一方通行なもんだから、出た直後に「オカシイ」と気付いて急ブレーキをかけないと原因を探れない。

出た直後なら、出口付近の様子を確かめることができる。そうすると、そこは光が当たる。そしたら少し、トンネルを短くすることができる。

そうやって、トンネルの中で何が起こっているのかを探っていって、違う出口に繋がる道を造り直していくんだと思う。

キーボードを覚えたり、自転車に乗れるようになるみたいに、ギクシャクでも何回も新しい道を通っていれば、それがまた新しいトンネルになっていくし、きれいな景色の見える出口につなげることができるはず。



てことで、思考パターンを変えようと思ったら、頭の中で出来上がっている路線を作り替えることが必要なわけだけど、頭を直接切り開いてこっち切ってこっちと繋いで、なんてことができるわけでもないので、内部から、つまりは自分の思考で切り替えポイントを見つけ出し、より良いと思われる考え方のパターンを植え付けていくしかないわけだ。

心理療法も色々あるけど、やっていることはどれもこれと同じ目的に繋がってるなあと思う。

それが、私にとってはインナーチャイルドと話をすることだったり、インナーペアレンツと対決したり、クラスメートや教師たちの声を論破したり、不要な常識をどかしたりすることだった。

私にはこれがよかったけど、脳みその中を探るのは医者やカウンセラーにはできなくて、本人にしかできないんだから、本人ができない、不審に感じる方法だと成果も上がりにくいだろうし、本人がいろいろやってみて、一番合う方法を探していくのがいいんだろうな。

しかし理解が進むほど、被害者を確保しているハラッサーがこんなことに取り組むとは思えなくなってくる。



こんなかんじで。ドクターショッピングするのもいいんでないって話に落ち着いたような。

誰でも、頭の中にブラックボックスは持ってるんだと思う。問題が起きてない時は開ける必要はないから存在を気にしてないだけで。
子供が産まれてすぐに素敵なお母さんになれちゃうような人は、ステキなブラックボックスを持ってるんだろうなあ。

ひかるとのぞむにもステキなブラックボックスができますように。

それでも今までの経験でオカシイトンネルもできていると思うから、いずれ自分たちでブラックボックスを開ける時がくるかもしれないけど、そのときは振り回されずにサポートに回れるようになっていたいな。
posted by 蝉ころん at 21:30| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月22日

褒めること

褒めるということに対して、長いこと違和感を感じていた。

「子供を褒めてあげてください。なんでもいいから、とにかくほめてあげてください」

こういうことは、育児関係の講演とか、育児書とか、いろいろなところでよく耳にしたし、目にした。

でも、褒めるべきこともないのに、何を褒めるたらいいの?変なことを褒めたら悪いことを助長してしまうんじゃない?

そんなふうに感じていた。

それから、自分の掘り起こしを始めると、褒めるということに対してさらに抵抗を感じるようになった。

私が育てられた環境での褒めることのカラクリがわかってきて、私自身もそういう用途でしか褒められないこともわかってきたから。



褒めるということは、ハラッサーの世界では条件付きの承認の意味になること。

「あなたは、私の意に沿うことができたから、このことについては認めてやる」

そんな意味でしかない。

しかも、その「意に沿うこと」の条件は、「私」の気分次第でころころと変わるもので、「私」自身でさえ結果が出るまでわからないものだ。

結果というのは、衝動的に出てくる「怒り」か「受け入れ」という形で出てくる。

こんなもののために、子供に必死に「意に沿うこと」を探して行動するよう仕向ける。

それが、ハラッサーにとっての「褒める」「叱る」ということの意味。



私はそんな風に子供を育てることから手を引こうと思っていたから、ハラッサー的にしか使用できない「褒める」ことからも手を引くことにした。

代わりに使うようにしたのが、とにかく子供の気持ちだけに注目して、今どう感じているかに注意して、ただその感情に名前をつけてあげること。

「嬉しいね」「やったね」「大満足だね」「疲れたね」

褒めない。行動に私情で評価を与えない。

のぞむは、感情を出すのが上手で、言葉でも表すのが上手いから、私も感情を返しやすい。
感情を返してやるとあっさりと満足して、また自分の世界に戻っていく。

ひかるは、感情が上手く出せず、話も、事実、行動を語るだけで、そのときのひかるの気持ちがなかなか伝わってこない。
恐怖に蓋をして嬉しそうに振る舞っていたり、のぞむや私の機嫌を伺ってにこにこしながら我慢していたり・・・。
表情豊かにはなってきたけど、作られた表情なのがわかるから、感情を返すのもなかなか難しい。



そんな感じで子供たちの行動を見ているうち、少しずつわかってきた。

褒めるっていうこと。

子供たちは、自分たちなりに、したいと思ったことをしている。

いいことと、悪いことなら、できればいいことをしたいと思っている。

いいことができたと思っているとき、褒めてあげられれば、「やっぱりこれっていいことだよね!」っていう気持ちになるのかも。

基準は子供の中にあって、その基準に対して、そうだね、って言ってあげることなんだ。

親にとって、大人にとって困ることならば、そう伝えればいいだけのこと。



基準は子供が持っている。

判断は全て子供自身がする。

子供自身の行動は、子供自身が選択して、子供自身が実行する。

子供はそれだけの力を持っていて・・・・親は、大人は、ただ、判断材料を渡すだけ。

褒めるってことは、子供の判断を尊重することなんだな。




子供を1人の人として扱うってことは、こういうことなのかも。

少しずつ実感を伴って進んでいると思う。
posted by 蝉ころん at 20:18| Comment(2) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月30日

原因は悪くない

なにかが起こったとき、私はまず、条件反射的に「えーーーっ!」となる。

私なにもしてないよ?なんでそんなことに?嫌だよ、どうにかしてよ!

これで、頭がいっぱいになってる。

この後、対処しているつもりでも、ベースがこれなので、ハラッサー的な対応になる。

ようは、

・犯人を探す(私がやったんじゃないでしょ!)
・罪を認めさせる(私が悪かったんじゃないでしょ!)
・原状回復を要求する(私は元通りでいられるべき!)

・・・な感じ。



実際に違うやり方を試していった上で、すこーしずつ、実感して来た。自分のやり方が無自覚にそんなふうになっていたことに。

何かが起こったときの対処としては、上のやり方ではいい感じには落ちつかない。

まずは、起こってしまったことを、ただ起こってしまったこととして認めるのがだいじ。上のやり方では、起こってしまったことを全く認めようとしていないなあ、そういえば。

そんで、起こってしまったことに対して、どうするかを考えるんだ。

・何が起こったのかを確認する(起こってしまったことはしょうがないや)
・困ることがあれば対処する(ベストでなくてもベターでいいよ)
・次に困らないように予防する(原因をみつけておこう)

・・・な感じ。

が、じんわり自分の中にできてきた。

まだまだ最初は「えーーーっ?」が出てくるけど、個人的な「やだやだ困る困る私のせいじゃない勘弁してー!」を表現して、一旦落ち着いてから対応するようにしてる。



で・・・・最初の

・犯人を探す(私がやったんじゃないでしょ!)
・罪を認めさせる(私が悪かったんじゃないでしょ!)
・原状回復を要求する(私は元通りでいられるべき!)

これは、私がされてきたことだなー。受け続けてきたことだなー。やはり。

何か起こったらとにかくまず容疑者は私。冤罪であっても犯人は私。
そして謝らせられて、始末をつけさせられる。私だけが原因じゃなくても。私が悪いんじゃなくても。もっと根本的な原因があったとしても!

それから、家では、ただ兄が兄だというだけで罪を背負わされているのも見ていた。

私が泣けば、兄が怒られる。明らかに私の我がままでも、私が悪かったことでも、私が泣いてしまえば、兄が怒られる。
いくら泣かないように努力しても、泣いてしまえば、兄が悪くなる。

なにか問題が発生したら、それは誰かが悪いのであり、とにかく罪人を決定して罪を償わせなければ解決はしない。

・・・なーんて回路ががっつり頭の中に定着してたらしい。



罪なんてどうでもいいのかもしれない。

被害者がいるなら、その心の傷が癒されることが大切なんだし、困ることがあればそれを回避することが大切なんだし、何回も起こることなのであれば、それを繰り返さないように工夫することが大切なんだ。

原因を見つけることは、改善するための糸口を探すこと。

犯人を見つけて裁くことが目的じゃない。

誰が悪いか、と、何が原因か、はイコールじゃない。

原因=罪、じゃない。



で・・・あと、何かおこったあとの対処をすることがとっても嫌いなんだけど、そのとき思っていることは、めんどくさい、とか、嫌だな、よりも、「私は悪くないのに・・・私のせいじゃないのに・・・なんで私ばっかり・・・私だけ・・・」とかそういう恨みが渦巻いている。

たぶん、私の中では、問題対処すること=罪を犯した人の罰、になってるんだ。

そうじゃないんだよ。

対処するのは、実は対処することができる人であれば誰でもいい。

というか、むしろ、上手な人が、原因になった人と一緒にやり方を見せてあげるのがいいんだろうなあ。その方が学べるんじゃないかなあ。

私はたいてい ちゃんと元通りにしとけ!→放置 か 邪魔だからあっちいけ!→放置 だったからなあ・・・。

どう転んでもひとり。

そのうち対処しないといけないような事態にならないようにならないようにするようになっていったなあ。そりゃ問題対処能力もつかないわけだ。



問題はおこるもの。どうあがいてもおこるもの。そう思っていた方がいいんだきっと。

だから、おこさないようにするのも大事だけど、おこったときにどうするかのほうが、きっと大切なんだよ。
posted by 蝉ころん at 12:44| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月29日

学校の都合

ひかるは今年度も不定期登校。

私としては、よく完全不登校にならずにもちこたえているな〜という感じ。

本人はまだまだどっちつかず。「行きたいけど行きたくない」という言葉は、半分本当の気持ち、半分思考からでた結論だろうとは思うけど、本人に行こうとする意思があって、行ける状態であるなら、行くことをサポートする、それだけでいいと思うようになってきている。

ただ、その落ち着いてきた私の気持ちをかき回すのは、やっぱり学校側。もちろん私がまだまだ突かれて反応するところを持っているから何だけれども。

学校側も、行けたり行けなかったりする子供、しかも、行けてしまえばすごく楽しそうに過ごしている子供が、行けないはずはないと考えてしまうのもわからなくはない。

でも、学年が上がるにつれて、「行かなければいけない事情」が増えてきているなあ、と思う。



高学年になると、だんだんと学校行事での役割が増えていく。

休むと、同じ学年の子にひかるの分の負担がいく。

負担の増える子供たちに不満はたまっていくでしょう。

ひかるが登校したときにその不満をぶつけられたりもするでしょう。

それがまた、ひかるには重くなったりもするようで。

それは、まあ、ひかるが自分で消化していかなければいけないことかもしれない。

でも、もう少し学校側も、来ない可能性が高いものとして、対応を考えてほしいなあと思う。

毎年毎年担任が変わるたびに状態を逐一説明して、事情を話して、理解と協力をお願いして、苦労をかけているなあとは思っているけれども・・・・。

直接説明をしていない教師からは、「なんで来られないんですか?」「今日も無理なんですか?」「お母さんから話してください」などなど・・・・・

責めるような言葉遣いにはまだまだ弱いと実感しつつ、電話を切ったとたんに悪態をついて発散して気持ちを表現してその場で消化しちゃうようにしている。



まったく、学校、行事多すぎ!

自分たちが全部こなすの大変だからって、いっこいっこの行事で力つきて行けなくなる子供の気持ちを考えたことあるか?

負担を背負ってることをわかりつつ、でもやり抜きたいって思ってる子供が頑張ろうとして、でもできなくて辛い思いをしているってのもわかって、でも見守るしか出来ない親の気持ちがわかるか?

なんでも親に押し付けてくるんじゃない!

出来ない子だって出来ないなりに参加できるならいいけど、出来る子と同じレベルを求めるのはやめてくれ!

そしてそれを親に強制させようとするな!

自分たちで責任持ってやってくれ!

出来ない子が出ることくらい覚悟して取り組んでくれ!



ひかるは頑張りたいと思っていて、でも頑張りたくないとも思っていて、私は、それをどっちも認める。できたら、一緒に喜ぶ。

こんなこともまだまだ上手くなんてできなくて。

私はまだ、登校時間になると動こうともできなくなるひかるを、ただそのままいさせておくだけ。

ただ一緒にお昼を食べるだけ。

顔を合わせたら普通に話すだけ。

イライラする前に離れるだけ。イライラは掘り起こしておくだけ。



上に書いた学校のことも、結局は私の心残り。

ひかるのためじゃなくて、私の気持ちのわだかまりだけ。

ひかるや、先生には直接当てずに、私が表現して消化すること。

現実に対応するのは、感情を元にして、思考が考えて、感情が納得できるやり方を決める。

学校の都合は、学校に返す。

私が引き受けられないことなんだから、やっぱりそれは引き受けずに、返す。

対立するんじゃなくて、できませんって言う。

それなりに、私なりに、なんとかかんとか、対応できていると思う。
posted by 蝉ころん at 19:21| Comment(0) | 近況報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月30日

応援したい

最近は、だいぶ気持ちもいつも通りに戻ってきたみたいで、子供たちに対するイライラも戻ってきた。

それでも記事として書きたくなるのは、やっぱり原発のこと。



福島原発は、状況が見えてきたらどうも長期戦になりそうな状態みたい。

いろいろと、体制とか対応とかを非難する声が出てきてる。

私も書いたけど、こういうのって、やっぱり不安の声なんだなと思う。

今は渦中だから、不安に振り回されてしまうのは仕方ないこと。

収束したら、きちんと調査して、みんなで先のことを考えていくのが大切だなと思う。

渦中を過ぎても、忘れずに、冷静に、みんなで決めるのが大切と思う。

感情的にならずに、でも、感情を軸に、対応を決めていくのがだいじ。

今はまだ、それを始める時じゃないんだなって思ってる。



まわりでそうこう言ってる間も、原発では危険な中で作業をされていて、本当に頭が下がる。

とにかく原発事故のやっかいなことは、事故現場での作業では放射線を浴び続けなければならないために、同じ技術者が続けて作業にあたれないことだと思う。

今日までにどれくらいの人が作業にあたったんだろう。

今後どれだけの人が必要になるんだろう。

危険な状況の中で、少しでも被害を少なくするために作業を続けてくれている人達を応援したい。そして原発周辺で生活している人達を応援したい。

と言っても、私に出来るのは、今までと変わらず周辺産の野菜を買うことくらい。今のこところ。

みんなで頑張れたらいいな。

それで少しでもマシな形で、状況が安定的に治まりますように。
posted by 蝉ころん at 15:15| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月26日

電力消費のこと

東京電力の電力使用状況ブログパーツができていたのでサイドバーに貼付けてみた。

こういうの、他の電力会社でもあったらいいな。

あと、自分ちの電力メーターが家の中に欲しい。



節電のためにいろいろ調べてみたら、パソコンとかの情報機器よりも依然として家電のほうが消費量多いんだってわかった。

PC関係はほぼ電気的な動きで成り立ってるから、ロスが少ないんだな。

家電製品は、エアコンとか、湯沸かしポットとか、冷蔵庫とか、炊飯器とか、コンロとか、電気を熱に変えるときに無駄が多いのと、あと、熱を利用することそのものがすごいエネルギーがいるんだな。

熱を使うのは、効率よく、同じ場所に集めるのがよさそう。

冷蔵庫なんて、寒い時期ならなくても北側の寒い部屋に置いとけば大丈夫だったりする。凍らせるのは無理だし、夏はそうはいかないけど。

キッチンは南側でも、貯蔵は北側にするとかで冷蔵庫の電力もマシにできるかな?

考えてみると、いろいろとエネルギーを無駄に使うように生活が変化してきたんだなーと思う。

昔は冬はみんなこたつに集まってたし、夏は窓を開け放してゴザ敷いたり、よしずやすだれで熱を防いだり、いろいろと工夫してた。

今は、みんなが集まる部屋が密閉性がほとんどなくてあっためても熱がどんどん逃げちゃうし、まあうちは夏はエアコン使ってないから電力消費はマシなほうだと思うけど・・・。

色々、工夫できる余地はあるなー。



あとはー。太陽光とか風力とか、家庭用発電システムつけたいな。

そんなお金使ってらんないんだけど・・・・。

いつか、ね。

今は生活を工夫して電力消費がどれだけ落とせるかやってみたい。
posted by 蝉ころん at 13:33| Comment(0) | 考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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